記事タイトル:川原寺の評価

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お名前: しばい   
 昭和40年頃から「かしけん」の発掘調査で、
飛鳥.川原寺が調査されて、一段落した頃の
昭和56年だった、奈良に滞在したことがあります。
 川原寺は、聖徳太子ゆかりの寺として記憶している
人も多いでしょうが、実際、訪問した当時、住職も
聖徳太子との関連を語っているのですが、
発掘調査の結果は、中大兄太子の行宮(あんぐう)で
日本書紀の異本にある記述をもとにした調査で、
中大兄太子が、皇太子であったとき、難波から飛鳥に
帰還したとき、宮を築き、天皇も都が大火があったとき
住んだとあるそうです。異本の記述がもとであるので、
引用も当然孫引きにもなりますので、内容は省略させて
もらいます。
 実際、天智天皇として白村江(はくすきのえ)に戦う
はるかまえで、聖徳太子の子、山背王子が惨殺された
直後あたりかも知れませんね。政治の表舞台に登場する
のは、有名な大化の改新で蘇我氏を倒してからですから
当時の政治が複雑だったことが知られますね。
 ワールドカップの共催もあり、だいたい、天智天皇の
事を取り上げるのも、遠慮する雰囲気が確かにありますね。
 隋が、建設狂が主因で倒れて、日本にもその影響が、
ありますから、これからは飛鳥の「狂心の渠」と呼ばれる
施設群の発見が相次ぐカモシレマセン。冷戦下、ゼネコン
を中心とする建設ラッシュも一段落し、早く、遅れた
インフラ整備を中心とする、常態(?)に復帰しないか
と考えています。
 聖徳太子は、法華三部経にたいする注をつけるなどの
仏教に対する造詣も深く、「法華ギショ」という法華経
の注釈書も書いたことになっていますが、それが、一人
の作業ではなく、女性も含めた留学生や僧も携わって
いたのではと言うようにはなりましたね。

 しばい

[2002年6月30日 7時3分11秒]

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