記事タイトル:魏志倭人伝

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お名前: ぱす
盲信するのはよくないみたいですが
http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo73.htm
[2005年02月06日10時45分]
お名前: やす
古事記・日本書紀が天皇の正当性を持たせる為に編簿された事は間違いなく、様々な伝承を天皇家に結びつけていると思われるが、だからといって全て間違いであるとは思えない。
はっきり言うとsekaiさんの言っている事は、論拠がない上に矛盾だらけでわけがわかりません。
もし6世紀まで大和とは別に九州王朝が別にあったと考えるならば、万葉集に九州の方の和歌が乗っていないのは九州王朝の恨みの歌が乗せられないようにしたんではなくて、乗らないのが普通では?
イヨやイワイって純日本風の名前ですよね。中国の名前とは思えませんが・・・。
聖徳太子が九州王朝????意味がわかりません。四天王寺や法隆寺、その他、聖徳太子にいわれが有る寺全部ばったもん?(偽造品)
記紀を見れば、歴史改ざんはされているけども、明らかに改ざんの跡が残っている(編簿者が意図的に残した?)神功-応神天皇の記述などは明らかに政権交代の臭いが読み取れます。天皇家が万世一系ではないと読み取れるわけです。天皇家を正当化する為に全て作り話とすれば、こんなおかしな歴史書にはなりません。
ただ7世紀の随書には朝廷に行く前に九州にたちよっており、秦王国と言う記述が見られます。
秦氏は九州を中心に全国で活躍していた渡来民族で、大和朝廷には属しているが、独自の勢力を持っていた事がわかります。
[2005年02月02日13時49分]
お名前: やす
邪馬台国北九州説はもちろん完全には否定出来ないが、不彌国までは完全に九州北部であり、距離に問題はあるがかなり正確に記されているのに、邪馬台国となると、そこから水行20日で投馬国さらに水行10日と陸行1ヶ月とあやふやになっている。 伊都国に一大率(後の六波羅探題または太宰府みたいなものか?)を置いている所からも、北九州にあったとは考えにくい。また邪馬台国=倭の国々全てを表すと言うのも無理がある。
[2005年02月02日13時11分]
お名前: ちゃちゃ君   
魏志倭人伝の全文英訳を参照して下さい。
英訳ホームページ;
http://members.aol.com/Chachakunn/wajinden.html

[2002年4月7日 22時45分58秒]

お名前: s@webone.ne.jp    URL
sekai様 ちょっと時間が経っているようですが

古武の正確な主張を代弁すると
「3世紀の三國志の陳壽の時代に存在した倭地の女王の都とする領域は邪馬壹國であって、けっして邪馬台国ではなかった」....です。
彼は、それ以降の時期に「邪馬臺國」と称する領域ないし政治勢力が存在しなかった...とはいっていないのです。
それにしても、私たちを含めて、漢字に対していい加減なハンドリングが目につきます。
「一」と「壱」と「壹」は、本来は別字です。
倭人伝の中に「壱大國」が出てくることから使い分けていることは明瞭です。
「壹」は「吉」と「壷」の合字であることにご留意下さい。
古田のやってきたことが、皆様の知性の尺度に照らして正当であると考えるのであれば
彼の発想の上にさらになにものかを追加してやるのが後学の責務と考えます。
本来は、30年前に邪馬台国論争はそれ自体が破産していたはずでした。

[2001年11月8日 0時38分47秒]

お名前: 安藤 春樹   
初めまして.札幌に住んでおります。
 最近、朝日カルチャーの講座で、北海学園大の教授が邪馬一国のことを語っていました。
 大和説を唱えたがる人は、やはり右の人がほとんどのようです。
 私は学習塾を主宰しておりまして、社会の歴史を時間には、必ず心の師である古田先生
 の教えのとおり、伝えております。
 それでは、また。

[2001年8月24日 18時3分31秒]

お名前: sekai   
日本古代史について

未だに古い皇国史観に基づき学校等で邪馬壱国・大和説等を教えているが、古田武彦氏が唱えた九州王朝説について知っていれば、邪馬壱国・大和説が如何に馬鹿げたものであるか判る。考古学といえば専門的で、容易に理解できないところがあるが高校卒程度の知識があれば理解できるところまでをまとめた。詳しくは、同関係書を読んでもらいた。同学会のホームページもあるようなので、観てみては如何だろうか。 

・・・・・・・九州王朝説の主な主張・・・・・・・・・

邪馬台国の台の字は壱の字の間違いである。「ヤマト」と読ませるために大和説の学者らが壱の字に似た字を当てたものである。

高等学校の歴史教科書等を読んでも判ることだが、小野妹子ら遣隋使・遣唐使が大和に始めて中国大陸の文化を伝えたのである。しかし、大陸への使者は彼らが初めてではない。それ以前に卑弥呼が魏に送った使者やそれ以前の多くの倭王が漢等に送った使者は、なぜ大和に何百年もの間、大陸の文化を伝えなかったのか?それは、彼らが大和から出発しているのではないことの証明になるのではないか?それでは、彼らはどこから出発していたのだろうか?大和の手前つまり、九州から出発していたことになるのではないか。

金印「漢委奴国王」の読み方について
  1 金印は格の高い印であり、領域国家の王にしか発行されないものである。博多湾の一地域の小国を示す奴国であれば、石印または銀印等のはずである。印が金製であることがら委奴国は当時日本全土を支配した国家である倭国でなければならない。
  2 「漢の○の○の国王」のような3段も「の」が付くような形容させかたの読み方は中国の印で他に例が無い。「漢の○○の国王」の読み方が一般的である。「倭奴」は今でも朝鮮半島等で日本の蔑称として使われている単語である。
  3 倭の字に人偏が無い・蛮人を示す奴の字が使われていたので棄されたと考えられる。
(倭=委であることから当時の発音は「イ」であると考えられる。)
従って、金印は「カンのワのナのコクオウ」ではなく、「カンのイドのコクオウ」と読むべきである。
*以上のことより、金印は倭王の印である。これのあったそばに王は住んでいたことになり、北九州地方に倭の中心があったことになる。

魏志倭人伝(魏志東夷伝倭人条)に出てくる邪馬壱国について
 魏志東夷伝は大中華帝国が製作した正規の東方諸国についての報告書であり、何百年も前の歴史や神話・伝承を記した日本書紀・古事記など比べ物にならない同時代の正確な記録である。
標記方法も統一された方法があり距離と日数二通りで標記されている。当時の朝鮮・満州等の各国についても正確を期すため距離と日数二通りで標記されている。距離と日数を繋げて読む日本考古学のやり方は、明らかな間違いである。距離・日数ともに邪馬壱国が北九州地方にあったことを示している。


・・・・・・・九州王朝説によれば、大和説では説明できない多くのことが説明できる・・・・・・・

聖徳太子の外交上の矛盾の理由・・・
よく言われる中華帝国に対する「日いずるとこの天子より、日没するところの天子へ・・・」に示される対等外交と朝貢外交の矛盾は、聖徳が九州王朝の天皇であり、大和のウマヤドノ王子ではないことにより説明できる。九州王朝は、北夷である隋と東夷である倭は対等であるとし対等姿勢をとったが、大和は朝貢姿勢をとった。

律令制度の前に存在する元号(天平・白鳳等)の謎・・・九州王朝が隋と対等・独立姿勢を示すため元号を定めた。

卑弥呼は誰・・・筑紫野風土記にミカヨリ姫というそれらしい人物が記されている。

倭の王は倭の五王(朕・武・斉・ ・ )等中国風の名を名乗っているが大和朝廷でではそのような形跡はない・・・卑弥呼の次の女王:壱与(イ・ヨ)から筑紫の君・岩ワ井の乱で有名な倭賄(イ・ワイ)まで、九州王朝の各王は中国風の名を名乗っている。

大宰府建設についての記録が一切無い・・・これを創ったのが九州王朝であるからである(他にも九州には九州縦貫自動車道路と平行に走る謎の古代の軍道が存在することが知られている)

大宰府とは何か・・・倭の首都であった。(C14放射性同位体元素による測定では6世紀には存在したらしい)

倭から日本へ国名変更の理由?・・・王朝の交代があったから、

日本書紀・古事記・・・政権奪取の直後に大和朝廷の正当性を示すために九州王朝の神話等を取り入れて造られたために、大和の話と九州の話が混ぜこぜになって、話の脈絡が混乱している。

万葉集に何故、九州・西日本出身の人の歌が無いのか・・・歴史の改ざんを隠匿するためである。九州王朝滅亡の恨みの歌が混入しないように載せられなかった。

防人の真の任務は、・・・大陸に備えるものものであれば経費や国民に負担の掛かる関東・東北地方から兵を九州に配置した理由が無い。九州にも兵となる国民はいたはずである。目的が、夷を以って夷を征するつまり、蝦夷を以って倭を征するためのものであるからである。

九州王朝滅亡の原因・・・白村江の戦いに惨敗したことである(筑紫の君(倭王)が唐の捕虜になっている)。その隙に援軍としてやって来た大和の軍団に乗っ取られた。

・・・・・日本考古学の問題点・・・・・・

これだけ明らかなことが何故、一般化しなのだろうか?それは以下の理由が考えられる。

日本の考古学は、日本書紀・古事記研究:本居宣長の国学を基に始められたものである。当然、国内だけの資料しかなかったわけで、皇国史観となる。明治になって中国・朝鮮等の海外の記録が入ってきたが、当時は天皇中心の強国を創ることが国策であった為に、これらがそれまでの皇国史観と矛盾したものであったので、歴史の改ざんが行われた。最初に海外の資料(魏志東夷伝倭人条等)を見つけた学者は、改ざんを認識していたはずである。そして、その改ざんの結果として多くの矛盾が生まれた。
そのためこれ以降、日本の考古学は、不毛な研究(如何にしてこの矛盾をうまく説明するか・ごまかすための研究)に明け暮れて終戦を迎えることになった。戦後も、学会の権威保持のためのみに間違いを認めようとせず今に至っているのである。

[2001年5月24日 14時33分18秒]

お名前: 岡田年弘    URL
邪馬台国はどこに、北九州か、それとも近畿地方,それとも九州にあって,近畿の大和地方に
移った?いろいろおもしろい!
そしてわが町河合町の紹介、その北葛城郡河合町にある古墳,きっと葛城一族のお墓か?楽しい!まだまだ内容不充分ですがこれからと言うことでご勘弁を。

[1999年9月20日 8時30分54秒]

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