記事タイトル:真実

書き込み欄へ 記事一覧に戻る
お名前: 素里奈
漢文と言うと全て「漢」から入って来たというが、広い意味では中国の文字といえるはずである。戦国時代の晋、燕の両国からもあらゆる中国文化と、いろいろな制度が、学問と一緒に、衛満朝鮮と漢四郡のときに、本格的に流入してきたことにより、漢文と銘うたれたと考えられる。しかし、漢文の起源を考えてみるならば、先秦時代をはるかにさかのぼって、金石文や青銅器に書かれている金文あるいは殷の時代の甲骨文から上古文字を発見するようになるのは重要な意味を有する。百済に限っていうならば、百済は楽浪とのつながりが、政治的に、そして地理的に密な関係にあって、けっして高句麗におとるものではなかったからである。 『三国史記』によれば、百済七代王の古爾王(234〜285「在位」)の時代になると、中央集権的な官制が整ってきたという。例の「十六官階」「六佐平制」や一品の佐平から六品の名率、官服のいろ分け、その官服に「徳」という字があって、文官をあらわし、十二品から十六品までは、「軍」・「武」・「虜」などの文字を刺繍して使われていたことから、武官をいみしていた。(中略)なおこの時代は、倭の女王、卑弥呼の記事をも、念頭に入れて考えた場合、たいへんひかえめであることが想像できる。
サガミハラハラさんのご投稿とは、直接にはつながらないが、かすかに抵触すると考えて
参照を試みた。
参考文献:前者・韓国文芸振興院2002年版『博士王仁と日本文化』後者・前述『三国史記』など。

[2006年09月01日20時50分]
お名前: 素里奈
先に「「抵触する」云々と陳述したので、その理由を述べる。
『古事記』に、応神天皇の時、百済から王仁(208?〜もしくは405)が来て、論語十巻と千字文一巻を献上した、とあるが、論語はともかく,周興嗣(502〜549・武帝代)が初めて筆にしたとする千字文を持参できるわけ無い。同じ【字書】でも、許慎の【説文解字】ではないか、これによって、役所の正式文書の字体をそれまでの金文から漢字に変更。要約すると、『古事記』では、神功皇后の時まで、外国のことは知らないことになっているから、中国の古代文字を既に使用していたとすると、『古事記』の撰者が記録を勝手に綴ったことが問題になるので、【説文解字】を「千字文」と書き変えた。と、談じる学者(レジュメ所有)がいらっしゃる。   筆者(素里奈)は、周興嗣筆以外にも、鍾ヨウの千字文,子雲の千字文,胡簫の千字文、作者不明としては「テン書千字文」草書千字文、演千字文などが『隋書』の経籍志にうかがうことが出来ることを指摘したい。他に蔡遠の注千字文等など。要は、王仁博士が持参したとする千字文は、周興嗣の筆になるものと限定して論じることは必ずしも的を射た論説では無い。王仁が持参したのは、東行時身辺で使用していた「千字文」あったかも知れない。  ・・・金文・神代文字・急就草・鬱岡斎墨妙・・・便宜上省略。

[2006年08月10日01時06分]
お名前: 素里奈
知見範囲内でお答えします。
・毛良夫里 モリャングブリ    
・爾陵夫里 イリョングブリ

(魏志韓伝記載の)ことは不勉強でして、何とも言及不可能ですが、三国時代の下級官吏が各々自己の属する国において、借用文字(ハングル以前に勝手に当て字で朝鮮音・古語に適用した。)を歴史書から拾うと以下のようになります。別々に参照・解説すると長くなるので、表にしてご説明を試みる。
爾(元の字核が多いので、百済の官吏は略字して「人」の字の中に「小」を書いて略字した。従って人小(一字)陵夫里=爾陵夫里。国別の変化の過程――
人小(一字)爾陵夫里:  *仁樹夫里: 仁夫里― 陵城―   
イ (イ)リョングブリ  インスブリ:インブリーリョングソングー
綾城―     綾州
ショングソング  リョングジュ
書物       百済       後期新羅     高麗       李朝
三国史記36  人小陵夫里      陵城      陵城       −
高麗史 57  人小陵夫里:竹樹夫里  陵城      陵城:綾城     −   
人夫里             
増補文献備考16 爾陵夫里:竹樹夫里 陵城      陵城:綾城     綾城
*1・2 「竹樹夫里」に見る「竹」は 『仁』の間違い記録である。

「人小(爾)陵夫里」は元々古朝鮮舌音nie−liG(逆記号)−pio−lie−niri−ri−po−ri/ニリポリに対する音移りであり、「陵城」は「人小(爾)陵夫里」の純朝鮮音(native tongue sound)である『陵夫里』即「リボリ」に対する音・意味からの「城」は「ボリ」に対する意味移りである。「仁樹夫里」はnien−zio−pio−lie−ni−si−po−riに於ける「ニシボリ」に対する声音移りになりながら「ニリボリ」とは、「「sue〜err」の変化に対する変種関係を持つたものである。『仁夫里』は『仁樹夫里』の純言葉形態からの「ニリボリ」に対する音移りになる。「綾城」は「陵城」と音声一致によるものである。「綾州」は「綾城」に基礎して書かれた漢字言葉の「吐・to」の郡・府の名前である。 
       
 


[2006年05月20日18時41分]
お名前: 素里奈
おわりに
私のつたない投稿その(1)から(71−C)を終えた感想を述べると、とにかく韓国語ほど日本語に近い言語はないと確信していること。今までの比較が成功を収めなかった原因は、まずその比較方法が単語対単語の表層的比較にとどまったからだと考えられたのである。たとえば日本語カサ(笠)は韓国語kas(笠)に直接対応形を見せているが、このことばは重複概念語に属するので、カサネル、フタグなどと同根語なのである。端折って結論を急ぐと、日本語が韓国から分離した時期は、縄文期も早期頃にあたるとみられる。「李男徳博士」(先述05・10・25.筆者投稿本HP「討論室」817「弥生語は南韓の韓族の言語と見る」参照)。
筆者の論点は、両言語の類似性を無理にこじつけて説く必要もなく、また無理に引き離すの理由もない。自然に、より深く探究され、ハーモナイズされた位置から論じ合う課題であると思いながら、一先ず筆を擱くことにする。
いろいろご指導・ご助言を賜った当世奇妙(資料館へプールを勧めて下さった)、福島雅彦、そんべ、ビクポテミその他の諸先生に厚くお礼申し上げたい。長いことお邪魔しました。了。

Copyright HAKBGK(Higashi Ajia Kodai Bunkao Gangaeru Kai)All rights reseserved 許可なく転載を禁じます。(1)から(71−C)まで別途清書中。2006年02月02日。

[2006年02月02日07時55分]
お名前: 素里奈
四行(省略)「ここから先は次の世代に託したい。100年ぐらいのうちには、私の言っていることが分かる人が出てきてくれるしょう」とも。
 もっとも、今回の本には、考古学から議論を挑もうとする動きもある。縄文学で知られる小林達雄・国学院大教授だ。「新著は生半可な中身ではない。予想以上に緻密(ちみつ)で、敵ながらあっぱれ。だが、私は考え方が違う。縄文時代すでに原日本語は成立していた」と小林さんは言う。
 大野さんは「僕は考古学は素人です。専門家が否定してくれるのは歓迎する。ダメならダメと証拠を示してほしい。間違っていると納得できれば、本から削除する。そのための議論はいつでもします」と受けて立つ構えた。
 (以上が新聞記事をそのまま転記した。全体A4版新聞文字の記事なので、全てを転記する手数を省いた。中略した個所は「朝日新聞社」保存版参照)。

[2006年02月01日02時41分]
お名前: 素里奈
「タミル語は舟にのって日本列島にやってきた。同じ海でつながる朝鮮半島にも影響があ
                    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
って何の不思議もない」との考えを示し、「日本語と朝鮮語は出発点を共有する兄弟関係に
・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・
あると考えるべきでは、との仮説を提起したい」と語る。
                         (・・・・・参照者) 
タミル語は60歳で始めた研究だった。この間、数多くの著作を発表してきた。しかし、言語学、考古学とも研究者からの反響は少なかった。「南インドの文明が3千年も前に日本に到来し、新しい時代を開く原動力になった―――だれにとっても信じられない.天駈ける空想と思われても仕方がない。広範な事実を示すことで、その空想を地上のロゴスの世界に引きおろしたい。それがこの本の狙いのです」という。つづく・・・

[2006年01月31日08時53分]
お名前: 素里奈
国語学者の大野晋さん、研究の「総まとめ」出版
タミル語は日本と朝鮮に来た

「日本語の起源は南インドのタミル語にある」との説を掲げる国語学者で学習院大学名誉教授の大野晋さん=写真(注:カラー写真左面にあり)=が、「四半世紀の研究の総まとめ」という新刊を出した。『弥生文明と南インド』(岩波書店)。200点に及ぶ写真や図版を盛り込み、言語学にとどまらず考古学、民俗学など様々な視点を補強。85歳にして、あらたに朝鮮語とタミル語の類似性にも論を展開した。新著にこめた思いなどを大野さんに聞いた。  (渡辺延志)

(注:某月某日(日付不明、切り抜きの裏に1・5〜1・11のTVの番組が印刷されているので、去年(2005)か、一昨年(2004)の正月・松の内?の朝日新聞・夕刊の記事をスクラップしたと推量する)。以下四頁ほど新聞記事を、そのまま転記するが、全文は長いので、切り切抜きした折に筆者(素里奈)が、赤ペンで線を引いたフレーズのみを、抜粋して、ここに紹介したい。そして公に発表された新聞記事の転記なので、現在まで( )内に付した番号も、追い番しないで、一つの番号に、A、B、C、Dを付して、参照する)。   件の「新聞記事」を転記する目的は、偶然筆者(素里奈)が現在迄この画面に投稿してきた話の筋に結構関係があるというものであるということ以外に、他意はない。第一同教授の件の「新著」そのものを読んでもおらない。読んだとか、読んでなとか別として、片や著名な学者の著書であり、参照者(私)のそれは巷の一書生が独学で研鑚したものにすぎない。あくまでもこの紙面上で云々するものであって、気楽にその内容を比較云々する位置にいるわけでもない。あくまでも偶然おおやけの記事として目にとまったものを、今述べた理由で、参照するにすぎない。興味がおありの方は、『件の新著』をお読みになられて、願はくば、その読後感を筆者(素里奈)のこの紙面までの、リポートその(1)〜(70)辺りまでのものも加味して戴いて、是非当パネルにコメントしていただければ、と期待するものである。

[2006年01月30日10時56分]
お名前: 素里奈
投稿の標題・漢字[水]、ひらがな[みず]、そしてカタカナで[ミズ]を付け加えた理由の説明。
カタカナ(日本語)は以下のように作られた。
例: 巴 「書き順の2画まで書いたあと、最初の字画の右へ曲げ下ろす画を省いて、縦に起こして切り離すと「ト」、4番目の字画を中央に運んで重ねる、そして同じく書き順1右側の縦の画を除くと「モ」、さらに字画1の右へ曲げた分と最後の画4を除いて「エ」となる。「トモエ・巴・ともえ」。
  : 没 「最初のサンズイだけ独立させて「シ」、そして終わりの「又」を活用「ヌ」即ち「シ・ヌ(死ぬ)となり、見出し一字そのままは「ぼつ」と音読、「死・を語頭に=死没」となる。数えればきりもない。(以下数頁に跨るので省略)。「没元は歿:没は替字」。
話は飛躍するが、安万侶(アン マン リョ)が残した「児・a−gi・アギ」という言葉のこと、『古事記』では「こども」としたのを『日本書紀』では「あぎ」となっていることを金沢庄三郎博士(1910)は、指摘して、「アギ・アガ」は朝鮮語であり、満州語aggiに共通する名詞である、と解説した。(注「素里奈」:このaggi・坊や・幼児/agga・生まれる前、母の胎内・羊水の中で成長する幼児も/は、大陸からの渡来語であり、<こども>よりは、はるかに以前の言葉であることがわかる)。金沢博士がそれ以上追究しなかった理由は、かの優れた学者も当時の時勢に逆らうことを避けて、そのままにした― 
 [(注:しかし博士晩年になって、甥御さんを通じて、“勢いで、何かと日本が先であると描写したが、実は逆である。”と言い直したことは周知のこと。)]     
―のかもしれない。 ここで筆者(素里奈)がいう『古事記・(書下ろし文、紀年がない)』と『日本書紀・(紀年がある)』の関連は、もし読者のお手元に『広辞苑・第三版』がおありでしたら、『日本書紀』の項をお確かめいただきたい。太安万侶は両方の撰に関与したことになっている。第四版からは舎人親王だけになった。或いは偶然かもしれないが、ちなみに、(『古事記』『日本書紀』)両書には、動かすことの出来ない連続性があり、安万侶が『古事記』の中で使用した新しく作ったとおもわれる日本語的固有名詞が再登場している風に見受けられるものが数個所ある。ここで舌足らずのまま「書き走り」して素通りする詳細は、別に整理する拙稿で、より詳しく参照することをお約束して、スペースの都合と、冗舌を省く為に、この紙面では、前述、最低限必要な例を記すに留め、一先ず区切ることにする。つづく・・・
 
参考文献:金沢庄三郎著『日鮮同祖論』東アジア叢書/鄭義杓著(在米・医者・日本史研究家)『三本足の烏の秘密を解く』レンリン出版社/その他。

[2006年01月29日04時39分]
お名前: 素里奈
『古事記712A、D、』『日本書紀720A、D、』だけが日本の歴史の主流なのだろうか。安万侶が残した描写のどこかに、決死的な暗号が隠されているような気がしてならない。しかし古代歴史を研究するとき、叙情を求めることや、抽象的なことがらを描写することは許されないと考える。やはり記録だけを参照して先へ進むことにする。
『古事記』中つ巻:百済国主照古王 牝馬壱匹 阿知吉師云々(また百済の国に、もし賢人があればたてまつれと仰せられましたから、命(めい)をうけてたてまつった人は和爾吉師といい、論語十巻・千字文一巻, 合わせて十一巻(中略)・・―――秦の造(はたのみやっこ)―――・・以下、このくだりは、周知の記録なので、省略する。  つづく・・・

[2006年01月28日03時35分]
お名前: 素里奈
本来この稿は、「木の実」の語源の話が終ったら、そのあとに古代高句麗語「泉」と日本語、そして「翁の里帰り」と「三国遺事」の関係、「精霊の王」を参照・解説を試みる、としたが、大幅に遠回りしてしまった。
いずれ、ここまでのすべては目下、別途に整理中の拙稿にジョウイントさせる覚悟であるので、ここで書き残した事項は、その節に併せて描写することにしたい。
 西諺に、“長い舌は短い手のしるし”というのがある。当初、投稿予定であった(50)辺りを、とおに過ぎてしまっているので、あと二、三筆者なりに、書き残した要点をかいつまんで記し、終わりに、大野晋氏の最近の著書『弥生文明と南インド』(岩波書店)を参照して、そろそろ締めくくることにしたい。
書き残したものとしては、1.千三百年の時空を超越した安万侶との対話。2.標題のカタカナ「ミズ」に関してなどであるが、その概略は、つぎの頁に・・・・

[2006年01月27日00時48分]
お名前: 素里奈
参照・(先述)した姜博士も、語法の面から考えて、日本語が直接にドラヴィダ語と同系であると断定しかねている。もちろん、大野晋・藤原明・芝丞・江実の諸教授の研究により、日本語とドラヴィダ語の比較研究が行なわれ、とりわけ大野晋教授は『日本語以前』(一九八七年、岩波新書)の中で、助詞・助動詞・接辞という文法形態の中で、使用頻度の高い一八個の形態素の比較に及んでおられるが、教授もまた、日本語とドラヴィダ語が同系語であるとの結論は下ろしてはおられない。(中略)いろいろな考察から、日本語にもっとも近い言語は韓国語であるとの結論を引き出すことが可能。云々。
・・2行前で  (中略)  した部分を以下抜粋する。・・
姜博士の研究では、韓国語とギリヤーク語の間には完全な文法的一致が見られるので、この二語は同系と断定できると論じ。この二語の語法が日本語ともほぼ同系であると考えると論じた。(同氏の著書『韓国語系統論』第七・九章、素里奈注:日本の学者の論でないことが残念である。「日本の学者のものなら、より説得力があったろうに、と、思う事と、仮にそう研究した方がおられたとしても、その論説を活字にして発表することはないであろう。」という意味である)。つづく・・・

[2006年01月26日04時29分]
お名前: 素里奈
したがって、ドラヴィダ語やアルタイ語(トルコ語・ツングース語等)と共に土着系(先述、韓半島の「ギリヤーク語と同系語」参照)の語彙も日本語にふんだんに取り入れられることになったであろうし、特に、辰国の消滅・伽耶連盟の滅亡・餘氏百済・滅亡の際の、三度にわたる韓半島からのドラヴィダ語族の大量移住によって万葉時代の日本の支配層は主として、このドラヴィダ語系の語彙を使用したものと思われる。

<参考>辰国の後継者が崇仁天皇の肇国(チョウコク)となり、伽耶連盟の滅亡が欽明天皇の即位へとつながり、餘氏百済の滅亡が日本軍の白村江出兵として現れたことを考え合わせると、日本の支配層が伽耶系の血統であると断定していいと考える(*姜吉云氏著『古代史比較言語学的研究』一九九0年 セムン社刊参照)。
* 文学博士『古代史の比較言語学的研究』など多数。  《注:同氏も未だ決定的に――「同系」――との結論は出しておらない。なおこの紙面、参照にあたって著者の原文、「です。ます。」調を筆者(素里奈)好みに変えて描写した。但し1項たりとも趣旨を変えることなく、参照者の私見「微妙な差異例:渡来人=敗戦避難民」の如く、を加筆したことを、お許しねがっておく》。つづく・・・   .

[2006年01月25日07時22分]
お名前: 素里奈
政変が起こる度に戦いに負けた人々の中でも支配層の多くはその身の置き場を失い、集団を組んで日本に渡来したものと推定され、(平安初期,弘仁六年「七七五年」成立の『新撰姓氏録』によれば、左右両京・畿内五カ国を本籍とする名家一0八二氏の出自を九類に分類しているが、その中で土着の氏と考えられるものは一類しかない。)となっている。「この参照事項、本稿・全体の特徴・性格上、はるか手前の章か後述のどこかで重複することをご容赦願っておく」。彼等が敗戦避難民となる以前の現地での位置から判断できることは、政治的・文化的に選ばれて優位に立っていた部類の群れが主であった筈なので、当然のことながら、彼等の語彙が当時の日本語に多く借用されて、土着(原住民)の日本語の中に浸透されたであろうことは、当然の成行きであったと推定できないだろうか。つづく・・・
[2006年01月24日04時01分]
お名前: 素里奈
前の章(紙面)で、異なる数種類の言語系統があった云々した。その根拠を述べる。
日本の『万葉集』が成立する八世紀までに、韓半島では辰(ジン)国の消滅(弁辰、ドラヴィダ系・紀元前一世紀)、朴氏新羅の没落(ツングース系・西暦一八四年)。楽浪郡の滅亡(漢系・三一三年?)、昔氏新羅の没落(スキタイ系?・三五六年)、高氏(解氏)百済の没落(モンゴル系。四七五年)、伽耶(カヤ)連盟の滅亡(ドラヴィダ系・五三0〜五六二年)、餘氏百済の滅亡(伽耶・ドラヴィダ系・六六年)、高句麗の滅亡(モンゴル系・六六八年  「注:先の紙面で、渡来人の日本への順序を記したが、高句麗系を最初に並べたのは筆者の勘違いのようなので、ここでおわび申し上げ、この紙面の順序に戻したい。乞うご容赦。」など、幾たびか政変が起こっている。づづく・・・

[2006年01月23日11時53分]
お名前: 素里奈
ましてや字書の音の表記は、孟の漢音バウ、バン、呉音ミャウ、マウ、マン(注:「韓国音 maeng」)とあっても、みなモウと発音する。V音のヴィはビに転ずる。字典の豊は漢音ホウ、フウ、呉音で、フとしているが、中国音は正しくは北音fang,古音poungであるが、日本人はngの音ができなかったので、みなウと表記するなど、異国音の複雑さを嫌っている。喉音のng(東、冬, 庚、陽など)は、みなウとなった。例を採ると限りもない。数頁に跨るが、一文字例を見る。
   A古音    M北音  C南音  (注:)古朝鮮音    J日本化音
           (漢音) (呉音)
柄  piang   pung (ping   pyeng   pei hei
                (peng 

《参考文献:『魏志倭人伝の虚構と真実』李家正文・国学院大学参与など・著117頁参照   除く(注:)》
以下素里奈(注:)両者の発音の差異は、漢音や呉音が、朝鮮半島渡来の人々を通して伝わった*@キリヤーク語系(古朝鮮土着語)とは別に、揚子江下流文化とともに、日本へ直接に伝わったことが主たる原因なのかも知れない。一方、高句麗が最初に漢字を借用「吏読・簡易文字(日本の万葉仮名の先輩)として翻用」して役所の記録などに残したのであるが、喉音はそのまま踏襲した。          
例:高句麗読み     日本読み
       東       tong     tou
       冬    tong     tou
       庚       kang     kou
       陽       yang     yo−u
両言語の糸が繋がっている、と思えるのであるが、この紙面上では、その確かな結び目は見えない。古代日本語に韓国の古語色が濃いこと、またそれを知ってはいても意識《音韻変化の法則など唱えて》的に触れたがらない。なかには、ことあることに、日本の古代文化を古朝鮮に結び付けることを《一般のひとは想像さえし得ない》毛嫌いする方も多いような、21世紀いまよう日本の言語(考古)学界の現状に思いを致すとき、双方(政治的・立場)のためには、筆者のいう「結び目」など、表たって見えないことが望ましいことなのかも知れない。しかしそれでは、学問「真実」の探求にはならない。つづく・・・

*@筆者・素里奈の知見では、古代の韓半島には少なくとも五種類(見出し・ギリヤーク語系のほかに)以上の言語系統を荷った流民が渦巻いて、覇権者が変わる度に公用語が変化、土着語を下層に追いやった上に、近現代の韓国語が成り立ったと考えられ、そしてさまざまな政変によってそれらの混成語(方言)をかついた高句麗系人、百済系そして新羅系の順に日本列島に移民したと見る。


[2006年01月22日07時30分]
お名前: 素里奈
英語のD,F,G,J,L,P,Q,R,T,V,W,Xなどの発音にみるLとRとの区別や唇音,舌音、牙音,歯音、喉音の音声を発する清, 次清、濁、清濁の別が困難である。
 五十音図をみても、アイウエオは楽に発音できるが、カ行のカキクケコがクわクいクうクえクおkakikukeko,サ行のサシスセソがsha shi shu she sho,ナ行がnya nyi nye nyo,ハ行がfa fi fu fe fo,ワ行の ヰwi ヱwe ヲwo となるような拗音の発声は嫌われてくる。つづく・・・・

[2006年01月21日06時09分]
お名前: 素里奈
話を「泉」の語源を求める紙面に移す前に、先述(59)で、日本語の舌音(語尾・終声)「Ng」から「g」がサイレントになってしまうことを、“後で述べる”、とした。明らかにしなければならない。長いので、三部ほどに分けて描写する。
 日本に伝えられた漢音・呉音は、中国の原音とは異なっている。なぜかというと、日本語には中国のような一字ごとの四声(字音の声調)平声(平かにいって上下がなく頭音尾韻ともに高低がない発音)、上声(頭音を軽く尻上りの音声とする)、入声(尻を促音とする)北方では南音の濁音を清音とするなどがあって、四声は、伝来時は仏典の読経などに使っていたが、一般はこの四声によっていない。つづく・・・・

[2006年01月20日05時25分]
お名前: 素里奈
万四三五二
道の辺(へ)の茨(うまち)のうれに@延ほ豆のからまるA君を吐かれか行かむ
@上三句は序。「からまる」を起こす「延ほ」は延フの東国形。とある。Aは作者の仕えた主のこと。
ここで李博士は、言語学上の追及から、mame に目がとまり、この句を取り上げたものと思う。韓国には李男徳博士以外に、幾人かの方が、「日本語を駆使して、日本の出版社で発行された文献を残しておられるが、中でも、韓国、日本の両言語学界で少しはその名が知れた方(元ハーバード大学招聘教授・大阪外大講師も勤めた)の論説で、日本、韓国両言語の関係に研究している方がおられる。ちなみに、 “「ウケ」(uke・ウクイェ)は「稲の実、租」意味である。「こめ」(米、渠梅・ko“−me”)は、米の意のほかに栗や稗なとの穀類の「実」を総称する語でもある。「まめ」(豆、麻米・ma−me“)は豆類の総称である。これら「まめ・こめ」の「め」は「実」の意。と、なっている。”  (金思火華(火華は1字)氏の「記紀萬葉の朝鮮語・六興出版90頁参照」両者とも高齢であるので、筆者(素里奈)の願いが叶うか否かは不明であるが、今度ソウルを訪ねる機会があって、ご生存中・お元気であり、折があれば両教授に直接伺って、 ――韓国語、日本語が、その語順、文法が共通している―― にも拘らず、両語が袂を別った時期と、その「深層を端的に」を論評・指摘していただいて、質問者(素里奈)なりに納得がいけば、再びこの画面で発表することがかなえば、と願っている。この辺で筆者・素里奈の不馴れな「万葉歌」を成り行き上、かかわらざるを得なかったものであったが、さいわい一区切りついたので、話を予定の “「泉」の語源を求めて”その他へと移すことにしたい。つづく・・

[2006年01月19日08時22分]
お名前: 素里奈
万一三一一
橡(つるはみ)@の衣(きぬ)は人皆A事なしと意ひし時よる着欲しく思ほゆ
@くぬぎ染めの衣。身分の低い人が着る。賎しい女の譬え。A男女間の煩わしさがないこと。 この歌も次の万一三一二の、 “おほろかに我れしおもはば下(した)に着Bてなれにし衣(きぬ)をとりて着Cめやも” にかかるので、伊藤氏の校注を参照するにとどめる。   B古馴染の女のたとえ。C「着る」は正式に娶る意。以上。
以下筆者・素里奈注:本稿は「木の実」の語源を求めるための参照なので、前に見る通釈だけでは、なにか最上のものではない解釈のようであるが、「つるばみの実」を論じている点、「万葉歌」の引用者(李博士)の意とする位置からは遠く離れてはいない。
ここに見る「橡・つるばみ」は、「どんぐり」欧州語ではacornのことで、古代より韓国(からくに)では、落ちた実の殻を剥ぎ、乾燥させて、手回しの石粉末器に、そして収穫した粉を清水に一晩寝かせる。後は豆腐を製造する工程と同じ(筆者想像)ものをひと箸分の大きさに切って食膳にのせる、料理名「ムック」。薬味にあわせるとビールやドンドンジュ(濁酒・濁醪・マッコルリ・日本では、かの有名な島崎藤村の詩扁『千曲川旅情』の一節に見る「にごり酒 にごれる飲みて 草枕しばし・・」)と同じ飲み物ではなかろうか。ドンドンジュ*  (語尾のju=酒。厳密には、 Dong−Dong−ju と発音する。この一語に限らず、すべての日本語と韓国語の発音に懸かることであるが、ng・ウング,ng・ウングの発音が、からくに(韓国)語にはそのまま残り、元来同一であった筈のものが、日本語から終声の[g]が消えて n・ウン,n・ウn,になって、ドング、ドング、がドン、ドン、になってしまった説明は後述する)  *とは、米粒がちらほら浮いている濁り酒であるが。「うわずみ」)をいう。この上澄みの冷酒は格別。「ムック」も、また珍味である。東京の韓国料理店には、この「ムック」を提供できる店と出来ないところがある。韓国料理愛好家で、未だご存知ない方は、一度試食なさることをお勧めしたい。
話が脇に逸れた。次回軌道に戻す。つづく・・・・

[2006年01月18日07時09分]
お名前: 素里奈
先述終わりの項で、「木の実」解説に登場した「万葉歌」を参照すべきか否かに触れた。幸いに「新編国歌大観」準拠版『万葉集』上・下巻伊藤 博(いとう はく)(氏)=校注が手元にあるので、李博士が引用なさったものを抜粋して、伊藤氏の校注+筆者(素里奈)・僭越ながら私見も含めて参照を試みる。
万一0一
玉葛実(@たまかづらAみ)ならぬ木にはちはやぶる神(かみ)ぞつくというふならぬ木ごとに  @さな葛。「実の枕詞。雌木は実をつけ、雄木は花だけが咲く。
   A靡こうとしない女の譬え。(注:この譬えは、次の万一0ニに “玉葛花のみ咲きてならずあるは誰が恋に・・・かかるので省略する)。どうやら、この句の冒頭の「玉葛」は「実」を修飾した(口調をととのえるための)もの、例−注:『飛ぶ鳥の飛鳥(アスカ(明日)の里)?
万三八三四
梨棗・なしなつめ@黍(きみ)に粟つぎA延ふ葛(くず)の後も逢(あ)はむとB葵(あふひ)花咲く  @「君に逢わず」の意に懸ける。A「後も逢う」の枕詞。
 先述kimi(黍)交替形kibi(ki−mi「黄−実」の合成語(前の項参照)
 別注に新田部親王(にひたべのみこ)に献・たてまつる歌一首。天武天皇の子。とある。
  筆者注:辞書によると、ここに見る黍・キビは稷・キビとも書いて、イネ科の一年草。実は食用。となっている。つづく・・・

[2006年01月17日07時01分]
お名前: 素里奈
 さてmi(実)のもともとの語根形は何であろうか。mi(身)はmuと言う交替系形(この場合被覆形)をもつが、mi(実)はそのような被覆形をもった用例がない。木の実のような粒状のものをあらわす語形として‐me“(乙類)があるがこれとて語根形そのものではなく、これまた語根形に‐i(名詞形成接尾辞)を加えた露出形のひとつだと見られる。mi‘me”の用例をみれた次の通り。
mi類 (古代日本語で既に甲乙両類の区別なくして混記されている例もあるが、木の実の類をいみするもとは採用した)
 mi‘(実)「玉葛実ならぬ樹にはちはやぶる神そつくとふならぬ樹ごとに」(万一0一)
Fazikami(蜀椒)(記神武)
    kimi(黍)交替形 kibi(ki−mi(黄−実)の合成語)(万三八三四)
    kurumi(胡桃)<和名抄>
    turuFami(橡)turubami(万一三一一)
 me“類
    natume(棗)<万三八三四>
    ko“me”(米)<紀皇極二年>
    mame“(豆)<神代紀上>、<記神代>、(万四三五二)

次回は紙面が許せば、上に見えた『万葉歌』そのものに触れてみたい。そんな必要があろうか? つづく・・・


  

[2006年01月15日10時03分]
お名前: 素里奈
「木の実」のこと、先述(33)(34)辺りまで、「木の実」を参照する入り口に辿り着いていたのであったが、谷(タニ)、串(クシ)、島(シマ)が、からくに(韓国)語と共通することに触れたりして、大幅に脱線、そのまま、この紙面まで来てしまった。
話を戻す。
日本語のmi(身)は、いわゆる “露出形”(名詞形)をつくるために、もとの語根に ‐iが添加された語形であり,“被覆形”muを古形とみる説(大野晋氏)もあるが、とにかく後者の方がもとのもとの語根形に近いものと思われるので、mu+i(名詞形成接尾辞)の二つの形態素の合成で mi になったのだと*筆者はみるのである(mi<身>の語言説としては村山七郎氏)の南方起源説がある<『日本語の起源』pp,1−10>参考。それに対する批判は*著者『韓国語語源研究』1巻V章pp.367−371参照)。

(本紙面そのままと、*が2箇所あるがすべて李男徳博士・元梨花女子大学教授の説を参照したものである)。つづく・・・

[2006年01月14日22時26分]
お名前: 素里奈
藤本教授の論説の残りを参照して一区切りつけることにする。
高句麗には日本語と一致するのがあって、注目される。『三国史記』の高句麗地名から、
上記(注:原文は右記/縦書きのため)のようにして推量された高句麗語tan,namer,mir,nananは日本語の「谷タニ・鉛ナマリ・三ミ・七ナナ」に類似する。古代日本語の「城(キ)」は百済語、「郡(コオリ)は新羅と考えられる。(以下8行は、先の項「(54)」素里奈私見・「吉」を表題にして両国語を比較したのも含めて)で参照済みなので省略」。以上。
次回は参照途中になっている。「木の実」、「泉」そして「世阿弥の・翁ふるさとに帰る」の新聞記事の話に戻ることにする。つづく・・・

[2006年01月12日18時04分]
お名前: 素里奈
長くなるが、以下2,3、素里奈流に通釈を試みる「永」韓国読み「イエン」
を、日本語では音読して「エイ」、訓じて「ながい」永久・永世・永代・永住となり、「吉」は、藤本教授の前述 kirの延長線上にあって、音読して「キチ」・「キツ」訓−-     「キル」転じて「長い」よいこと、めでたいこと。
以下その共通音を追うために、両者を列記してみる。
韓国読み          日本読み
吉日(キルイル)      キチジツ
吉兆 (キルチョ)      キッチョウ
吉利支丹(キリジタン)   キリシタン
前掲地名「永同郡」での「郡・グン」であるが、両者の音読は共通して「グン」であり、古代一国を区分した行政区画。*こおり。都、道、府、県の下にある行政区画。を意味する。これを三国時代(高句麗・新羅・百済)もしくはそれ以前の三韓時代に舞台を移すと、
「郡・グン」go−eul・「コウル」名詞:郡,州,府,県の総称。郡衙(ぐんが)のある所。
韓国語のgo−eulは「ふるさと」をも意味する。日本の関東の地名に「三郷・みさと」があるが、この「郷」の「さと」読みは、元の響きが日本ナイズされた生活・舌音?声移しの名残ではなかろうか。根拠は、1)両者とも[郡・こおり・goeul]を行政区画の共通語としている点である。2)古代3つの地区から集散する交通上の三叉路のJunctionだったのかも知れない。                                                                   
3)勿論、ちゃんとした地名の由来があった筈だ、と推量するのであるが、日本の古地名や遺跡名で意味不明の物を、つぶさに調べると大抵の場合、アイヌ語か古朝鮮語にたどりつく場合が少なくないからでもある。
本紙面、終わりの3)は(参考文献を元にしての説明・描写であるが、長くなるので、他日本投稿のすべてを活字にして書物にする際には、此のこと、詳しく参照するつもりである)。つづく・・・


[2006年01月11日06時29分]
お名前: 素里奈
「アルタイ語の特徴」としては、
1.音調和がある。
2.語順に子音群(英語のdr−,str−,spr−など)がない。
3.膠着(こうちゃく)語である。
4.関係代名詞がない。
5.名詞の曲用(ドイツ語などの格変化)がない。
6.rとlの区別がなく、また語頭にこない。
などがある。母音調和だけならばアフリカの言語にもあるが、上記のすべてを充(み)たすのは少なく、それは同語族である可能性が強い。
上記の点からみると、韓国語はアルタイ語族と共通点が多い。ただ具体的な証明作業、つまり共通の語彙や音頭などの確認作業に入ると、古資料が乏しく証明が困難である。韓国の資料としては、歴史書『三国史記』(1145)と『三国遺事』(1280年代)が主で、中国の史書や『日本書紀』などの外国資料にたよらざるを得ない。

(素里奈注:藤本教授が件の書を執筆なさったのは1993年5月20日「13年前」現在である。素里奈が本稿・先述で幾つかの共通語を、「吏読・りとう」に於ける借用漢字から生じた「水」・「みず」の語源として解説した2006年01月10日現在のものと、同教授がお示しになられた前掲『三書』・参考文献が限られているとしたこと、そして、また幾通りかの著名な先師が著わした韓国・日本同語または同祖説に標記されたものとは一線を劃す「勿論それが全てではないまでも」ものであることは前に述べた)。また同教授の説く    
 
“両国語がなんの関係も持たないというのではない。”「先述(48)参照」  
 ―――――――――――――――――――――――
としたことをこの紙面に明記して、読者のコメントを乞うものである。あと一頁ほど藤本教授のお説に共鳴できるくだりがあるので、それを次の紙面に参照して、話を先へすすめる。・・・

[2006年01月10日04時47分]
お名前: 素里奈
ところでアルタイ山脈は多くの遊牧民の居所となったが、5〜6世紀、中央アジアに活躍したエフタル族はもともとアルタイ山中からでたものであり、また6世紀より8世紀半ばにかけてモンゴリアより西トルキスタンにかけて支配した突厥も、はじめ「金山」に拠っていたという伝説がある。それによると突厥はもと匈奴の別種で、姓は阿史那である。
この阿史那氏のことを、江上波夫氏は、突厥(トックツ)と読ませる。その著書『騎馬民族国家』(日本史へのアプローチ)78頁「3」突厥・トックツ「突厥文字の碑文・狼の子」のくだりに詳しい。少し感傷的な話になるが、当「東アジア古代文化を考える会」の確か十周年?記念の会「於:東京神田・如水会館」だったと思うが、江上先生のお元気だったころのにこやかなお顔が思い出され、なつかしく、今少し詳しく複写を続け、その紙面から離れたくない心境である。しかし、そんなことをしていると日が暮れてしまう。筆者断腸の思いで振り放し、先へすすむことにする。そして、そろそろ参照途中のままになっている藤本幸夫氏の“アルタイ語族の特徴”に紙面を戻すことにしたい。つづく・・・・・

[2006年01月09日04時32分]
お名前: 素里奈
アルタイ語族とは、トルコ・蒙古・ツングースの三語群からなり、元来アルタイ山脈あたりにあった一言語が、古くに分かれて生じた語族である。もっともこれら三語群が言語的に共通するのは、古代における相互間の頻繁な文化交渉のためとして、アルタイ語族の存在を認めない学者もいる。
ラムステットの学統を汲(く)むアメリカの学者ニコラス・ポッペ(一八九七〜)は、師説を継承したが、アルタイ語族の中でも韓国語が共通の語彙(ごい)に乏しいのは、韓国語がきわめて古く他の三語群と分かれたためと考える。(素里奈注:次回はこの頁、冒頭にみる“アルタイ山脈あたり”、を藤本幸夫教授の説から暫時離れてその位置を探ってみることにする)。つづく・・・・

[2006年01月07日00時30分]
お名前: 素里奈
まだ学問的に系統が、証明されていないだけである。韓国語・日本語・アイヌ語という、系統未詳の三言語が、地域的に隣接しているのは珍しい。
韓国語がアルタイ語族に属すると、具体例で主張したのは、グスタフ・ヨーン・ラムステット(一八七三〜一九五0)であった。彼は駐日フィンランド公使として滞日中に、韓国人から韓国語を学んだ。ただ彼は現代語によったため、誤りも冒しているが、大筋は的を射ている。言語の比較は可能な限り、古語を用いねばならない。つづく・・・

[2006年01月06日06時35分]
お名前: 素里奈
前(47)で文末5行を静岡大学の金容基教授の解説を参照した、と描写したが同教授監修になる『韓国』という書物のうちの「第2章」「言語」藤本幸夫1995年代富山大学教授の執筆になるものであった。粗忽をお詫びして訂正いたします。
勝手ながら藤本教授の論説を暫らく参照することにする。
 「韓国語のルーツを探る」
  最近『万葉集』を韓国語で解いたり、古代韓国語が日本語と同じと主張する人びとがいる。しかしこれら両国語に無知であったり、現代語の語呂合わせで、学問的価値を持たないものが多い。奈良時代には日本・新羅(しらぎ)両国に通訳がおり、両国語の通じなかったことは明白である。といっても、両国語がなんの関係を持たないというのではない。
つづく・・・・

[2006年01月05日08時21分]
お名前: 素里奈
先述(45)で喜田貞吉氏に触れたので、ついでに、韓国語と日本語の本格的系統論をもって研究なさった、金沢庄三郎博士(1987〜l967)の『日韓両国語同系論』(1910)に触れずに話を進めるのは、片手落ちな気がする。とは言っても、この紙面で同博士の300頁に亘る冊子・論説を延々と参照、転記することは、大幅に道草を喰むことになるし、また博士のそれは『龍飛御天歌』(ハングルと漢字で刊行された朝鮮語がfullfashion[完全成形])された最初の書物)が発行された後、相当な年月を経過してからの植民地韓国語と明治日本語から遡っての比較であり、筆者がこの稿で暗中模索している舞台と、その時代背景は、同博士の『同系論』をはるかに遡った、即ち三国時代(高句麗・百済・新羅紀)の漢字借用文字・言葉の揺籃期を検索しているものが多い。その内容の大部分は金沢博士、大野晋氏そして村山七郎諸氏等の日本語源流論の成立期とは一線を劃するものであると筆者なりに判断した。先のある頁または後の項ではともあれ、すくなくとも、この紙面では割愛したい。                                    
一方 “金沢博士より先に古韓国語が日本語と関係が深いことに気がついて、関心をもたれていた人に江戸時代の新井白石がおる。例:「味噌・海(ワタ「古韓国語バタ」)・熊(「コム・クマ日韓共通」)・鵲(韓「カチ」日「カササギに転訛」)・杜・もり(「注:どう?共通するのか筆者素里奈には説明不可」)・牛(「ウ・ウシ・ウソなどそのまま共通」)などなど。しかし今日納得のゆかないものも多い。”

(この頁文末5行“〜”迄「語彙の共通比較は素里奈」を除いては、静岡大学金容基教授の著書「韓国語のルーツを探る」から参照した)。つづく・

[2006年01月04日09時13分]
お名前: 素里奈
上山春平(うえやま しゅんぺい)京都大学人文科学研究所教授の語録より。
“次に日本語については大野さんの説におおむね賛成なのですが、ちょっとわからないことがあるのでおうかがいしたいのです。大野説では、単語は南(筆者注:タミル語が船に乗って日本に来たことを指すと解釈する。)からのものが圧倒的に多く、これが言語の基礎を成している。ところが文法はアルタイ系といわれる。基層が南なのに文法が北(注:大陸系のものが陸伝いに渡来したことを指すと解釈する。)だというのは説明がつかないのではないでしょうか。”
(『日本人とは何か』・O天城シンポジウム・民族の起源を求めて・小学館 s56.02.10版248頁)つづく・・・

蛇足:このシンポジウムの出席者は全16名。昭和55(1980)年代なのでお馴染「後の文化庁長官」そして江上先生は勿論のこと、著名な先生方を網羅している。書物に当時の近影が掲載されているが血気盛んな壮年顔でいらっしゃる。仰々しいので、お名前を羅列するのは遠慮申し上げる。

[2005年12月31日07時51分]
お名前: 素里奈
筆者としては、この紙面迄の描写で、一つの節目の通過点であるかのような感じである。筆者と同様なご興味のある読者は、先述(本稿「4」,「5」去る17・11.1.日付)あたりへ頁を戻して、古代高句麗語(即現代の朝鮮語も同じであるが。)「mur」は現代日本語の「mizu」であるとした項を再度お見通し願いたい。このすぐ前でコメント(参照)したように、「『三国史記』巻37地理誌4」からの<<水谷城「ムル‐コル‐sueng」>>を<<買旦忽>>と表記したとした参照例が,その根拠と言えるのである。ここで<<買旦忽>>は声移し法に表記されたものであり、<<水谷城>>はそれを意味移し法から表記したものであることを容易に理解することが出来るのである。このような境遇からは、先に声移しになったものに書かれた媒介文字たちの基礎漢字音を探してみて当時の朝鮮漢字音即その吏読音を推定し、それを意味移し法による表記資料に合わせてみて、さらにそれらを、より確固に根拠させることが出来る他の資料を探してみなければならない。<<買旦忽>>はその基礎漢字音を通じて、<<mata−na−kuru>>に対する声(音声)移しであることを推し当てることが出来る。つづく・・・
[2005年12月27日09時58分]
お名前: 素里奈
このような解読を通じて基礎漢字音と当時の朝鮮漢字音すなわち吏読音との関係は、子音よりか母音においてもっと複雑なことを知ることができるのであり、子音においては中国漢字音からのバッチム(ハングルでいうところの終声音になる子音)が無視され、母音においては、中国漢字音からの重詞(重言葉「注:合成母音のことか?」)母音がhod−moum(一重母音)にのみ書き換えられた(当て字した)と見られる。また一方中国漢字音に於ける「s,/s」,[a‘/,a]のような一連の微小な差異は無視されていることも知ることが出来る。
多くの表記資料のなかには、一つの対象名に対して音声移し法に表記されたものと、意味移し法に表記されたものを各々一個づつ持っているものも少なくない。つづく・・・

[2005年12月26日11時07分]
お名前: 素里奈
表記変種     基礎漢字音     共通性 , 通用性     解読
嘉瑟カソル  kai−siet一 ka−si/ ka−se   カシ/・・・
加西カソ   ka,−siei一 ka−si/ ka−se   カシ/・・・
嘉栖カソ   kia−sei 一 ka−si/ ka−se   カシ/・・・
古尸コサ   ko−sie  一 ko−si/ ko−se,  コシ/・・・
上述の如く四通りの表記変種などに書かれた文字たちの基礎漢字音は一連の共通的要素を持っているに拘わらず一方において少なからぬ差異を有している。これらは一つの地方名に対する表記であれば原則的に一つ名前に解読されなければならない。それらを一つの名前に解読されるようにするためには、その基礎漢字音たちの共通的要素などがなくてはならない。この共通的な要素などは多くの分数計算からの<<最大公約数>>にも似たようなものだ。前述の例からの「kasi」と「kase」が共通性をみせており「kosi」と[kose]がそれらとお互い通じて書かれる「a−o」の通用性を見せてくれている。そして基礎漢字音たちの間には「kai/ko」,[siet/sie/sei]と同じ一連の差異点を見ることが出来る差異性(・・・注:3文字下部に位置)も見せている。つづく・・・

[2005年12月24日07時57分]
お名前: 素里奈
前で、「佐平」、「谷」、「島」など、気がついたものを取り上げた。「島」の語源などは、前掲にとどまらず、437年百済から渡日途上の小さな島で、母御が急に産気ついて出産なさった斯麻王、後479年百済に戻って武寧王となった幼名の由来など、趣を変えてもっと具体的に解説する方法もあるような気がするが、この紙面は、文字・言葉の分野なので、いまはさておくとする。そして残りの「串」を取り上げて、一区切りつけないと切りがない。最期に残した理由であるが、これが何とも、その語源の奥行きが、既に取り上げた幾つかのものと違って、その淵源は広く深い。高句麗が中国の漢字を借用して、朝鮮半島の土着語に翻用(吏読文字・語)し始めた時期の「解説のための基本方法」から説き起こす必要を感じるのである。この紙面でその故事来歴を延々と述べることは、読者にとっては退屈な話であり、筆者としてもあまり分別のある手続きとは思えない。(中略)次回は「串」の語源にもっとも近い箇所を抜粋する手段で「くし」の語源の参照を試みることにする。 つづく・・・
[2005年12月22日07時56分]
お名前: 素里奈
「島」 斯摩:斯麻:嶋/サマ:サマ:ト。
『三国史記』巻26−斯摩  
『百済新撰』サマ−suema−suem−seum
<斯摩:斯麻>はsie−ma:si−maから「シマ」に対する音移しであり「嶋」は<seum>の意味からそのいにしえ言葉である<シマ>に対する意味移しなのである。
『訓民声音』(解例)suem 島
日本語における<シマ>はわれわれ(からくに)の言葉の昔の面影をそのまま伝えている。
于山島:于山:鬱陵島:鬱陵:羽陵:于陵:武陵/ウサンド:ウサン:ウルリョンド:ウルリョン:ウロン:ウルン:ムリョン。
文献/国別        新羅     高麗       李朝
『三史』4       于山:鬱陵    −        −
『遺事』1       于陵      羽陵        ―
『東覧』45    于山島:武陵:羽陵 武陵:羽陵     −
『中備』14    于山         −       鬱陵
『新増東国ヨ地勝覧』巻45江原道蔚珍郡<サンチョン>には<于山島>と<鬱陵島>がナランヒイッタ(ナランヒイッタ「並んでいる=注:決してこじつけではなく、この    *ナランヒ・・・はそのまま日本語のナラブに共通する」)。並んでいる二つの島の名前になっている。これは即ち鬱陵島と独島を指すものである。始めは二つの島をあわせてまとめて一つの名称で地名にしたが、後に鬱陵島は大きい島だとしてそう呼ぶようになり、于山島は小さい島である「独島」を指すようになった。
<于山島>は<オサシマ>に対する声―意味移りである。<于山>は&io−san“−o−saからの<オサ>に対する音移りであり<島>は<seum>のいにしえ言葉である<sima>に対する意味移りである。つづく・・・

*ナランハダ na−ran−hada[形容詞]−変則 揃って並んでいる。
*ナランヒダリダna−ran−hi−dari−da[形] 並んで走る。
*ナランヒ‐コレ「名詞」―平行に並んでいるオンドルの&#28821;道。

[2005年12月21日09時36分]
お名前: 素里奈
<佐:左>はtsa―<sa>から<サ>に対する音の移りであり、<平>は<beoll.beolpan(原・原っぱ)の古代形態である<beoli/bara>に対する意味転訛であり得る。<サバラ>はその官職等級との発音の共通性からみて舒発翰(サバルハン)・角干(カクカン)「高位」転じて「京位」もっとも高いものであったと見て、元来は<サバラ>/seuburu/suburu>即<seoul(京の都の守護役)>を治めるシンボルである牛頭・頭領である官職名に対する音声の移りであり得る。このphoneticな変化が、『日本書紀』「神功紀」の<宇流富里智干>に見えて<宇流>は<干老>等から表記される人名であり、<助富里>は<subuluhana>からの<suburu>に対する音声転訛であり<智>は尊称の<ち>であるし<干>は<カナ/ハナ>に対する表記である。
蛇足:『梁書』巻54(?サイ(1字不明)夷伝)に見える<子賁干支>は<saborokanaji>に対する声の移りであり、<智>は尊称を意味する言葉である。とある。
 図らずも大幅に紙面を占領した。そして串、島などを次回に述べるが、けっして「水・mi」「木の実・mi」それから「泉」の語源を探る話の順序を忘れての道草ではないことを明記しておく。つづく・・・

[2005年12月19日05時02分]
お名前: 素里奈
“古代日本語の八母音の存在は原始日本語と古代日本語の間の母音変遷を物語るものとして、韓国語・日本語の比較研究はこの問題を解く重要な鍵の役割をするものと考えられる。特に単語の末尾部分にe,e“,i”三母音が多くあらわるということは、ある母音と―i母音が縮約現象(contraction)を、単語の末の方で起こした結果ではないだろうか? 単語末のi音は、アルタイ諸語に一般的に多い名詞形成接尾辞ではなかろうかという仮定が生まれる。
 そこで、韓国語の―me(実)の場合の発達経路をたどると、日本語のmi(実)の語形成立のあとも明らかになるというのは、両言語が同系に属するという仮定なくしては成り立たないのだから、これは非常に重要な比較研究の出発点だと云える。“          
(この紙面はすべて前掲李男徳博士の著書45頁より転記した)。つづく・・・  

[2005年12月15日22時28分]
お名前: 素里奈
「蘇那曷叱智考」を見る。
『日本書紀』崇神紀(六十五年条)および垂仁紀(二年条)にあらわれているが、その本文には任那国から蘇那曷智というものが使いにきたことと、数年後、かれの願いによって帰国させるにあたり、赤絹一百疋を(返礼品として)任那王にあたえたが、とちゅう新羅人に奪われ、これがために、那羅両国間の怨みが始まったという意味のことを書いてある。ところが、その分注として引かれている一書には、御間城(ミマキ)天皇(崇仁天皇)の世に額に角を有する人が舟にのって越国の笥飯浦(ケヒノウラ「今の敦賀」)にきたために、そこを角鹿(ツヌガ)と改称したということ、その人はすなわち意富加羅(イホカラ)国王の子で、名を都怒我(ツヌガ)阿羅斯等、一名于斯岐(、、、于斯岐の三文字の上にルビ状に描写)阿利叱智干岐といい、はじめ穴門(下関)についたが、そこに伊都都比古というものがおって、「自分以外にはこの国に王はなし」といっているのをみて、その偽りであることをしり、途を北海にとり笥飯浦(角鹿)にきたということ、またほどなく垂仁天皇の世になって、天皇は都怒我阿羅斯等に、帰国の意思があるをしり、先帝御名(ミマキ)をもってかれの国号とするようにした。(中略)更に分注の他の一書には、以上の説話とは全く違った―――かえってあの天日矛に関するそれと相通ずる内容の話をつたえているが、後で別に描写するが、別段深く考慮にいれる価値がある記録であろうか。・・・・なお、「つぬが=つるがは、素里奈の投稿前掲(11月25日)『敦賀は角鹿』で描写した内容と大幅に重複する。   次回はそんべさんの目にとまった金思火華(一字・キム サ ヨップ)氏の「倭人と韓人」の世界をみることにする。

[2005年12月13日13時28分]
お名前: 素里奈
そんべさん、今日は!2度もご質問をうけて有り難う。今度は少し緊張してお答えしなければなりませんね。なぜならば、日本の一部の学者は、韓国と日本両国語が同系でないという、否定的な見解を持っている。筆者素里奈は、前記『当H P「討論室」』で貴台とご意見交換をしたように、両者は同系であると考えている。日本語の源流が韓国語だとすれば、日本の神話と韓国(からくに)との関係は興味深い問題であると思う。筆者はそういう立場で、学者じゃないまでも、ない智慧を絞って(先師の文献を参照するのが殆どであるが)しどろもどろながらご質問にお答えを試みることにする。
早速参照からはじめることになるが、『日本書紀』全現代語訳上・下二巻のような大変な作業・業績を完成なさった宇治谷 孟(うじたに つとむ)教授はその「まえがき」でつぎのように述べる。
(前略)そして(中略)  “近頃は韓国生まれの人の、日本古代史研究者(素人も研究者に含まれるのかな?)も少なくない。古代朝鮮語で読むと、従来、日本人の思いもかけなかった、奇抜な理解の仕方があることを知らされた。万葉仮名の漢字使用に、甲類・乙類という二種の区別があり、その理由が解明困難であったところ、当時記録にかかわった人たちの、出身地の方言の相違――百済系・新羅系の二系統があることに因るもとかという、指摘がされている。”  件の書『上巻』3,4頁参照。 以上のような記録を踏まえて、次回(26)から標題を特に「そんべさん」に答えることを意識しないで、そのまま、その(27)としてつづけて『水問答』をいま暫らく投稿続する。しかし筆者は学者ではない。素人である。従って“E & O E”の勘酌があることをねがっておく。つづく・・・

[2005年12月05日16時38分]
お名前: 素里奈
『仮面に捧げる祈祷』
仮面たちよ オー 仮面たちよ
黒い仮面、赤い仮面、そして白くて黒い仮面たちよ
聖霊の意気遣いが四方に立ち込める仮面たちよ
私は沈黙してあなた方に挨拶します!
一番おわりのあなた, 獅子頭を持つ祖上のあなたはあなた自身にあらず
あなたたちは旅人のすべての笑い、選ばれたもののすべての媚笑が禁じられた場所を守っています。
あなたたちは永遠の大気を掛けて十干を創造し、私はその中に己の先祖の大気を呼吸します。
あなたの容貌に倣って
この肖像を、白い宗彝の蔡壇にこうべを垂れる己の顔を映し出した仮面たちよ、
私の話を聞き届けておくれ!
         
     Leopold Sedar Sengghor, 1906年
        (筆者注:原作者Sengghorは李朝末期に朝鮮半島に来た宣教師と思われる。名前のスペリング最初のeと次のeの上部に‘ が付く名前なので、欧州地区から派遣された布教使節の一人だったとも考えられる。キム ファ ヨンと言う方がハングルに翻訳してある紙片のものを、ここに再び日本語訳して収録した。ふたつの言語を重ねて翻訳された結果、オリジナルの韻律を損ねたであろうことが気にかかる。)

[2005年11月29日17時15分]
お名前: 素里奈
どなたか、『如何なる雄弁も、真実を打ち砕くことなどできない。』
に対して、コメントをお願いします。
「韓国と日本の関係は、過去も現在も常に『真実とは無縁の位置にある。』
[2005年03月27日22時32分]
お名前: 素里奈
いかなる雄弁も、真実を打ち砕くことなどできない。

[2005年03月22日20時36分]
このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)

氏名
E-mailURL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。