記事タイトル:漢風諡号太子撰

書き込み欄へ 記事一覧に戻る
お名前: 望月古亶   URL
★追加
 本居宣長や坂本太郎は、正安3年(1301)ころ卜部兼方の著した『釈日本紀』の記述をもとに、漢風諡号は、『古事記』や『日本書紀』が成立したのち、淡海御船が文部少補の任にあったころ(762−764)に撰上されたと説いている。しかしながら、『釈日本紀』の記載する「私記曰く。師説く。神武等の諡名(おくりな)は、淡海御船、勅を奉じて撰するなり」には多くの問題があり、本居宣長の『古事記伝』や坂本太郎さんの「列聖漢風諡号の撰進について」のように強弁できるものではなく、森鴎外の「帝謚考」にみる消極論のように、『釈日本紀』の記事を除いては考えるべきものがないので従わざるを得ないということになる。
 ところで、『白河本旧事紀』の「皇太子本紀」いわゆる『異伝聖徳太子』の推古天皇27年4月の是の月の条には、つぎのように記載されている。
 ≪是の月、太子奏して、磐余彦(いはれひこの)天皇より、泊瀬部(はつせべの)天皇に至りて、共に三十四代の天皇、倶に其の諡号を上る≫
 そして、「天皇本紀」の見出しは神武天皇ではじまる。まさに、推古天皇28年に『天皇紀』を撰修するために必要があって、その前年の4月に崇峻天皇までの諡号を聖徳太子が奉ったのである。
 ★漢風諡号淡海御船撰上説には、多くの問題点が指摘され、すでに静岡県歴史研究会編『歴史叢書』(第6号)所収「日本書紀稿本の発見』で10項目を挙げたところであるが、さらに次の一項目を追加したい。
 『続日本紀』の延暦4年(785)7月17日の条をみると、淡海真人三船が卒したことが記載され、その中にかつて勅で譴責処分を受けたことが記されている。このような人物に歴代天皇の漢風諡号の撰上を命じることが妥当であろうか。
 ★漢風諡号は『日本書紀』編纂後に撰上されたのであれば、その諡号は『日本書紀』の記述にもとづいて贈られたと考えなければならない。たしかに神武、綏靖の諡号は、神武紀、綏靖紀から連想できるが、孝昭、孝安、孝霊、孝元などは不可能である。ほかにも記述と諡号が一致しないものがある。
 ★懿徳天皇と唐の懿徳太子の諡号の関係にも疑問が出てくる。『日本書紀』は『天皇国紀等』の改訂版か。
http://www.geocities.jp/identaisi22000/
[2007年02月08日06時34分]
お名前: 望月古亶    URL
崇峻天皇までの漢風諡号は、聖徳太子が『天皇国紀(記)等』を編纂するために必要があって推古天皇27年に撰上したものです。詳しくは下記のhpをご覧ください。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1527/
[2003年12月06日20時05分]
このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)

氏名
E-mailURL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。