記事タイトル:東福寺別当について

書き込み欄へ 記事一覧に戻る
お名前: “三木の秋祭り”   URL
吾妻鏡自称4年のところに箱根山東福寺の別当行実と、弟永實が出てきます。

8月25日 乙巳
  大庭の三郎景親、武衛の前途を塞がんが為、軍兵を関に分ち方々の衢を固む。俣野の
  五郎景久、駿河の国の目代橘の遠茂が軍勢を相具し、武田・一條等の源氏を襲わんが
  為、甲斐の国に赴く。而るに昨日昏黒に及ぶの間、富士の北麓に宿すの処、景久並び
  に郎従帯する所の百余張の弓弦、鼠の為喰い切られをはんぬ。仍って思慮を失うの刻、
  安田の三郎義定・工藤庄司景光・同子息小三郎行光・市川別当行房、石橋に於いて合
  戦を遂げらるるの事を聞き、甲州より発向するの間、波志太山に於いて景久等に相逢
  う。各々轡を廻し矢を飛ばし、景久を攻め責む。挑戦刻を移す。景久等弓弦を絶つに
  依って、太刀を取ると雖も、矢石を禦ぐこと能わず。多く以てこれに中たる。安田已
  下の家人等、また剱刃を免れず。然れども景久雌伏せしめ逐電すと。
  武衛筥根山に御坐すの際、行實が弟智蔵房良暹、故前の廷尉兼隆の祈祷師を以て、兄
  弟行實・永實等に背き、忽ち悪徒を聚め、武衛を襲い奉らんと欲す。永實この事を聞
  き、武衛と兄行實とに告げ申すの間、行實計らい申して云く、良暹の武勇に於いては、
  強ち怖るべきに非ずと雖も、謀り奉るの儀に及ばば、景親等定めてこれを伝え聞き、
  競い馳せ合力せんか。早く遁れしめ給うべしてえり。仍って山の案内者を召し具し、
  實平並びに永實等、筥根通を経て土肥郷に赴き給う。北條殿は事の由を源氏等に達せ
  んが為、甲斐の国に向かわる。行實同宿の南光房を差してこれを送り奉る。相伴の僧
  山臥の巡路を経て、甲州に赴き給う。而るに武衛到着の所を見定めずんば、源氏等を
  催し具せんと欲すと雖も、彼以て許容せざるか。然れば猶御後を追い参上せしめ、御
  居所より更に御使いとして、顔向すべきの由、心中これを思案せしめ、立ち還りまた
  土肥の方を尋ね給う。南光は本山に赴くと。
 
[2003年09月15日22時38分]
お名前: “三木の秋祭り”   URL
箱根神社は、かつて箱根権現または箱根三所権現と呼ばれ、奈良時代の天平宝字元年(757)、万巻上人が神託により、瓊瓊杵尊・彦火多々見尊・木花咲耶姫命の三神を箱根山より現社地に奉斎し、一社を創建したことに始まる。
 古来、駒ヶ岳では主峰・神山を神体山と崇める山岳信仰が行われていたが、奈良・平安時代、仏教と習合しその本地垂迹思想の影響のもと箱根山固有の権現信仰が成立した。とりわけ天台系の密教的信仰の影響は大きく、箱根山を中心に多くの修験者が入峰し、関東における修験通の霊場として発展をみるに至った。
 箱根権現は創建時より万巻上人草創の権現社と東福寺とが一体を成しており、いわゆる式外社であったが、朝野の信仰篤く、関東鎮護の古社として崇められた。
 社伝によれば、第五十二代嵯峨天皇は弘仁八年(817)勅により駿豆相の三州を寄進、第六十五代花山天皇の時には、皇子豊覚王が第十五代座主職に着任、また鳥羽上皇は当社を崇敬し、酒匂郷四十八町を寄進している。
 箱根権現の活動が歴史上顕著となるのは平安時代末期から鎌倉時代にかけてのことである。平安時代末期の箱根山別当(東福寺)は行実であった。その父良尊はかねて源為義・義朝父子と親交があったので、義朝の子頼朝が伊豆に流されてくると、頼朝のためにしばしば祈祷などのことを行ったという。治承四年(1180)八月、石橋山の合戦直後、箱根山山中において別当行実は頼朝主従を援助。のち、源頼朝が鎌倉に幕府を開き天下を掌握すると、箱根権現には特別の信仰と保護を加えた。
 箱根権現は、伊豆山権現とともに「二所権現」と称せられ、鶴岡八幡宮に次ぐ幕府の準宗祀として将軍家をはじめ幕府御家人の尊崇を集めるとともに、将軍家による社参・奉幣・社領寄進・神馬奉納などに預った。特に将軍自らの箱根・伊豆両所権現への参詣を「二所詣」といい、初代頼朝にはじまり、六代宗尊親王に至るまで将軍家行事として続けられた。またこの時代、『貞永式目』をはじめ武家起請文の神名の筆頭にあげられるほど著しくその神威が高まった。
 室町時代には鎌倉府からも崇敬が寄せられ、さらに北条早雲は永正十六年(1519)四千四百六十五貫余の社領を寄せ、以後、北条氏歴代には箱根神社を重んじた。
 鎌倉神社の社務は専ら別当が執り、鎌倉期には配下に多数の僧兵を擁して勢威すこぶる盛大であった。室町初期から中期にかけては、小田原大森氏の一族から出て、別当職を勤めたものが多い。そして、早雲の次子長綱は剃髪して入山し、幻庵と号して別当に昇進した。
 天正十八年(1590)小田原陣の際、兵火に罹って全山が焼亡、文禄三年(1594)徳川家康が朱印領二百石を寄せ、慶長十七年(1612)社殿を復興した。寛文七年(1667)将軍家綱がまた社殿を造営している。  江戸時代、幕府による東海道の整備・関所の設置にともない道中安全を願う人々で賑わい、庶民信仰の聖地としても発展した。
【三つ割菊】

かなり古い話題で、すんません!!!

[2003年09月15日22時23分]
お名前: パンパカパ^^ン   
 有名な政界失楽園の夫妻が結婚式を挙げた、
箱根山権現が、お求めの東福寺ですね。
  WWW.harimaya.com 辺りかな?
でも、別当行実については、正解だと思うのですが?
永實には、記載がありません。
 誰だったかな、あの政界失楽園?
 以外とさーちも&よりも、連想句がいいのかな?
  しばい

[2002年8月13日 21時51分40秒]

お名前: しばい   
 いまは、ピエールカルダンでも有名な、
京都の臨済宗慧日山東福寺は、寺域も広大
で、東本願寺派、浄土宗にも東福寺が、
あるそうです。
 箱根山とういうのは、解りませんが、今なら
 www.toufukuji.JPに、なまずさーちというのが
 あり、公開できる文書を公開しているようです。
 話題の京劇「楊貴妃と阿倍仲麻呂」でも主役の
 楊貴妃所縁のお寺も近くにありますので、参考に
 してください。

[2002年8月11日 13時28分47秒]

お名前: かずみ   
箱根山東福寺の別当行実と、
弟永實について教えてください

[2002年6月28日 15時47分32秒]

このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)

氏名
E-mailURL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。