記事タイトル:大日本帝国憲法はなぜドイツ流?

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お名前: まきまききんちゃん2
大日本帝国憲法はなぜ?ドイツ流?おしえてください!

[2004年11月04日10時33分]
お名前: 広嗣
 法律学で英米法に対する大陸法(独仏)という呼び方があります。大雑把に言えば、英米法は大枠は決めても細かい点は判例を重視する傾向が強いのに対して、大陸法は予め明文で細かいところまで決めておくという特徴があります。

 徳川幕府の政策を否定する形で成立した明治政府は、それまでの御法度を使うことはできません。欧洲型の裁判制度がまだ整っていないこの時代に英米法を導入することは、事実上不可能です。そこで大陸法ということになったのですが、当初明治政府が倣おうとしていたのは、フランス式の法制度(ナポレオン法典)でした。しかし、普仏戦争でフランスが敗れると、一転してドイツ式となりました。

 尤も当のドイツもビスマルク主導の下に誕生したばかりの国で、「ドイツ法制の伝統」があるわけではありませんでした。そこでドイツはユスティニアヌス1世(東ローマ帝国、在位527〜565)が編纂させたユスティニアヌス法典(ローマ法大全)を基に法律を作ってゆくことになりました。余談ですが、日本の民法は、この時代の第一草案を基に作られたものですが、ドイツはイタリアと文化も歴史も違います。そのため実際にドイツで制定された民法は、この第一草案とは違ったものになっています。


[2004年06月12日01時45分]
お名前: まき
突然すみません。遺失物法は明治32年制定のようですが、この法律はどこの国をモデルに作られたのでしょうか。またその成立の背景につきまして、何かご存知でしたら、教えてください。
[2003年12月22日12時04分]
お名前: 日本史
広嗣さんの発言について
日独より安定した時代とは?
[2003年10月30日21時56分]
お名前: ヘイ   
明治憲法がイギリス流ではなくて、ドイツ流であったことに対する不満は少な
からずあるようですね。これは現代人の感覚だろうと思うんです。

当時の日本にいたわけではないので何とも言えないのだけど、少なくとも人権
がどうのこうのって感覚は現代とは違っていただろうと思います。ちょんまげ
と鎖国から解放されたのはいいとしても、まだまだ封建的な色彩は残っていま
したし。

ベースになる考え方としては、ナショナリズムが主流であったかもしれません。
自由民権運動なんかは、当時の為政者から見ると邪魔な以外何者でもなかった
はずです。
ただし、大正時代になると、大正デモクラシーとかで民主主義に対する認識も
高くなってきますが、右翼思想の攻撃対象になってしまいます。
やっぱり少数派なんでしょうねえ。

議会そのものについては、ドイツ憲法でも明治憲法でも規定してあったはずで
すが。
思想上で不満があるのか、制度上で不満があるのか、その点がやや不明ではあ
りますね。

[2003年2月1日 14時10分18秒]

お名前: きんちゃん   
以下の質問に答えて頂ければ真にうれしゅうございます。
大日本帝国憲法がドイツ流であったこだわりとはなんですか?
議会政治を重要視したイギリス流はなぜ投入しなかったのでしょうか?
憲法をドイツ流にしたことで起こった悪い点もあったはずだし、
イギリス流にしてたらいいことおあったはずです。
大変なお手数をかけます。是非時間が空いたときにでも返事を
返していただければありがたいです。

[2003年1月30日 3時35分16秒]

お名前: 江戸通   
 今年は、江戸開府400年ということなので、
ちょと言いたくなりました。維新の傑物坂本竜馬は、
「万国公法」を念頭に置いて、船中八作(朔)を練り、
基本戦は同じ、五箇条の御誓文により明治を迎えました。
 当時、幕府だけでなく、西南雄藩でもライデン大学を
中心とする大陸系の法学を学び、摂取しようとしていた事、
マグナ=カルタを基本法とする慣習法を理解することが、
とても大変であると言う事は自覚があったのだとおもいます。
 イギリスに成文憲法があれば、飛びついて居たかも
知れません、オランダ、イギリスという親日的な国の法律は、
かの儒者林家でもよく知るところであり、大陸法と英米法の
違いという感覚は、やはり理解する事も当時難しいのではなかった
かと考えます。フランスを始めとする絶対主義(王権)は、
ドイツ法において、簡便に書かれていたは、言いうるとおもいます。

[2003年1月14日 20時47分41秒]

お名前: かず   
たくさんの、立派なお答えを本当にありがとうございます!
心からお詫び申し上げます。

[2003年1月2日 8時8分41秒]

お名前: ヘイ   
ちょっと補足です。

イギリスというと、歩きながら考えるとかで国民性なんでしょうかね?
ピューリタン革命では流血ありましたけど、名誉革命では流血騒ぎ起きてない
です。フランス革命やロシア革命とは、えらい違いです。

イギリスの国王は、「君臨すれども、統治せず。」とあります。
戦後日本の象徴天皇みたいなものでしょうか?
明治初期の為政者から見ると、「君臨する」のはいいとしても、「統治せず」
というのは、まずいと判断したのでしょう。この点からもイギリス流はアウト
です。
すべての権力は天皇に集中させる。国務大臣はそれを輔弼(ほひつ)するとあ
りますね。

[2002年12月29日 12時46分49秒]

お名前: ヘイ   
広嗣さんのフォローになるかどうかわかりませんが

当時の日本には、対外的に関税自主権と治外法権という二つの大きな命題を
かかえていました。これを何とか解消するために、日夜努力していたといえ
るでしょう。
イギリス流の議会制民主主義というのでは手ぬるいという考えがあったかも
しれません。平たくいえば、時間がかかりすぎるということです。
短期間で欧米列強にひけをとらないほどの国力にするには、政治的には天皇
を中心とした中央集権制、経済的には産業奨励による資本主義の推進を考え
ていたはずです。(とにかく急いでいたということです。)
となると、ドイツ流ということになるのでしょうね。
当時のドイツは、ヨーロッパではイギリス・フランスに遅れをとっていて、
ヨーロッパの中では発展途上国といってもいいでしょう。当時の日本もまた
しかりです。

ドイツ憲法の弱点はわかりませんが、明治憲法の問題点になっているところ
は、統帥権の干犯というところでしょうかね。憲法の解釈によっては、指揮
命令系統(軍)が二重構造になってしまうということです。

ドイツ憲法をお手本としたことで、日本はドイツとほぼ同じ命運をたどるこ
とになります。(第一次大戦では敵味方に分かれましたが)

[2002年12月28日 15時30分38秒]

お名前: 広嗣   
 ややもすれば国が分裂しかねない状況が、日本とドイツで似ていたのではない
でしょうか。

 御存知の通り、日本は戊辰戦争を経て1868年に薩長を中心にした政権が成
立しました。戊辰戦争と言っても、徳川が身を引いたために深刻な内戦にはなら
なかったものの、薩長政権や改革に反感を持つ人は、少なくありませんでした。

 ドイツは1871年にビスマルクが中心となって成立した、いわば「新しい国」
でした。

 一方のイギリスは、ヴィクトリア女王の時代で、この時代は日独に比べれば安
定した社会になっていました。

 こうした両国の違いから、伊藤博文らはドイツに似た憲法を制定したのではな
いでしょうか。


                                  広嗣

[2002年12月28日 2時22分43秒]

お名前: かず   
なぜ当時の大日本帝国憲法は、ドイツ流だったのですか?
イギリス流のどこが好まなかったのですか?
または、ドイツ流でなにか弱点があるとしたら、それはなんだと思いますか?

[2002年12月23日 8時17分25秒]

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