記事タイトル:武田信玄の寿命が10年延びていたら、天下取りレースは?

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お名前: デストラーデ
すみません、誤字です。甲陽軍艦の艦の字は、

「艦」ではなく、「鑑」でした。

大変失礼しました。
[2004年04月15日23時57分]
お名前: デストラーデ
チャオ!オレステス・デストラーデです。お忘れでないでしょうネ!
89〜92年と95年に西武ライオンズに在籍しました

ところで、武田と言えば、大著SOあの「甲陽軍艦」です。
武田流軍学のバイブルそして武田信玄公の遺徳を偲んで書かれたとされ、
盛名を極めてますが、記述が、信玄公の死後も続けられ、勝頼の死よりも
さらに先に延びて、小牧・長久手の記述で終わっているのは、実に不思議です・・・
作者は、あの高坂弾正とその甥春日創惣二郎そして、あの山本勘助の息子で
臨済宗妙心寺派の僧と伝えられていますが・・・
武田と違う記述で、締め括られているのは、なんとも奇妙ですネ・・・・
[2004年04月15日23時52分]
お名前: マック
オマリーさんローズさんアリアスさん
こんにちわ。
信玄鉄砲狙撃説は伝承としては有名ですけど
祖先の武勇伝が・・・・と書くのは野暮な
ことで、まあひとつの説でございます。

それから毛利の吉川邸のさらにそのトイレ
の遺跡が発掘されたことがあります。
大きな木製の樽が2つほど、
その木製内側の残滓物で食料の貯蔵か、
それともいわゆる だいべん、しょーべん
用かわかるものなのです。

この場合、排便系の決め手は、、
糞べラ、、、、もんじゃ焼きのとき使う
おのヘラに似ている木製のものですけど
これが残っていたこと。
当時は、こんな物を使っていたのだははは。

それから、、ベニハナか何かの虫下し用の
下剤成分が見つかっています。
これは、、腹痛のとき、虫下しの下剤を飲む
わけです。

甲斐の風土病は、生野菜に付着する微小な
巻貝だったような記憶ですけど、、
人間の排便を肥やしとして使うことにより
循環するのですねえ。

ご紹介の
日本住血吸虫が下剤で排便できたかどうか
それは不明ですけどね。




[2004年04月15日03時13分]
お名前: オマリー
皆様トーマス・オマリーです! 阪神・ヤクルトで、6年間お世話になりました。

ところで、本日4月12日は、奇しくも、武田信玄公の命日でございます。

信玄公は、天正元年(1573年)の今日、伊那駒場で、
53才の生涯を閉じられました。

さて、信玄公の死についてですが、私は『三河風土記』の記述が好きです。
あの黒沢作品の影武者の原作となったものです。

信玄公は、三河の野田城を攻略の時に、城内から聴こえてくる、
笛の名手村松芳体なる笛の名手の笛の音に心を動かされ、
夜毎聴き入っておりました。

そこへ、鳥井三佐衛門に狙撃されて、落命したと言うものです。

陣中でも風流を愛した、信玄公のほのぼのとした一面を感じさせてくれます。
[2004年04月12日23時10分]
お名前: ヘイ
日本住血吸虫からくる症状としては、消化器系になりますか。それと発熱ということらしいです。呼吸器系ではないですね。

本当のところは、わかりませんね。呼吸器系が有力ということらしいですけど、複合型なのかも。

次は、バースかブーマーあたりなりますかね?


[2004年04月12日18時03分]
お名前: ローズ
ハイ!お待たせ!ローズです。ジャイアンツでも、よろしく!

ところで、武田信玄の死因と言えば、巷では、胃がん・膵臓がん・肺結核等諸説
入り混じってますが、寄生虫説と言うのご存知でしたか?

日本住血吸虫と言うんだそうですヨ、宮入貝に寄生して、なんらかの経緯で、
人間の体内に入り込むんだそうです。

信玄は、若い頃の水練とか、魚釣りとか、信玄堤の護岸工事とかで、
体内に侵入したのかもしれません・・・・潜伏期間は、なんと20〜30年にも及び、ジワジワ信玄の肉体を蝕んでいたのかも・・・


[2004年04月11日23時32分]
お名前: アリアス
家康は、本能寺の変の2日後の6月4日には、あの『神君伊賀超え』で、
岡崎に逃げ戻り、明智討伐の兵を挙げるよりも早く、本多信俊・名倉喜八郎を甲府に出兵させて、甲斐を併合しました。


実は、家康は、織田信長よりも、かねてから武田信玄に私淑しており、甲斐並びに武田の優秀な人材が欲しくてたまらなかったのです。

家康は、武田家の旧臣を大量に再雇用し、直ちに徳川軍の軍法・軍略・陣揃え等を武田式に切り替え、政治手法までも武田信玄をモデルとして、旧武田家の遺臣を登用していきました。


また家康は、武田家終焉の地、天目山の麓の田野に、景徳院を建立し、勝頼主従の菩提を手厚く弔いました。

従いまして、武田家と徳川家には、深刻な確執など存在せず、遺恨など無かったと考えられます。
[2004年04月11日17時29分]
お名前: ヘイ
織田家と武田家が和睦したのは、まつりがきっかけです。民主主義の世では、御先祖様はどうであれ、今ではタダの人です。
徳川家と武田家の間柄についてもよくわかりませんけど、言われるほど敵対関係には無いと思います。まつりか何かで同席することがあれば和睦することはありえますけど、あんまり深い意味合いは無いでしょう。歴史ファンを楽しませるためのパフォーマンスと考えればいいと思います。

これが、だまし討ちとかで滅亡させられたら、これはかなり遺恨ということになってるはずですから、そう簡単にはいかないでしょう。でも、こういう因襲が残っているのって、そう多くはないと思いますけどね。こういう所では、霊現象も頻発するようです。

それにしても、投稿者には外人選手の名前が多いね。
この次はローズあたりになるのかな。


[2004年04月11日14時55分]
お名前: カブレラ
徳川家は、武田家と和睦しないんですか?
それとももう和睦していたんでしょうか?
[2004年04月11日12時00分]
お名前: ヘイ
武田・織田家が430年ぶり和睦、遺恨越えて握手 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/history.html?d=10yomiuri20040410i514&cat=35&typ=t

[2004年04月11日10時15分]
お名前: クロマティ
それにしても、戦国最大の実力者、信玄、謙信ともに足利義昭の呼び掛けに応え、義昭から見れば、自らの陣営に引き込みながら、二人とも大事の直前に落命してしまいました。信長にとっては、強運も大きな味方だったんですネ!
[2004年04月08日00時29分]
お名前: マック
武田信玄が発病したのは
通説では、年末、三方が原戦後の正月
では、一時は、持ち直したようですけど、
長篠城から、本国に戻ろうとした4月
伊奈谷、武田領にはいった付近で死亡と
なります。

信長は2月には、武田軍の異常にきずいて
いたのか、岐阜城から出兵し、
余裕で西近江の一向一揆軍を鎮圧しています。

高遠城で不良隠居していた信玄の父親信虎も
息子の病状を心配し、薬を届けていたようで
すから、、、織田、徳川にはバレバレでしょ
うね。

それから
上杉謙信は馬上杯で有名ですけど、アル中と
言われてもしかたがないほど酒好きで
死因は脳卒中が通説です。
かなり酒乱。



[2004年04月08日00時06分]
お名前: クロマティ
マックさんへ、いつもご博識には、大変感心しておりました。こうしてresさせて頂けて、大変光栄です!ところで、なるほどそうすると、信玄が上洛の兵を挙げたのは、元亀3年10月ですから、時期的にはまさに好機だった訳ですネ!
[2004年04月08日00時00分]
お名前: マック
クロマティさんへのresとして、
武田信玄の西上戦つまり信長に挑戦
できるリミットが元亀3年でした。

2年後には、浅井、朝倉を滅ぼした時点
で、450万石、動員兵力は12万兵と
なります。

伊勢長島一向一揆の殲滅戦には、織田軍
は、6万兵を投入しています。

その後、河内平定戦、三好軍の掃討戦では
10万兵を投入します。
五幾内の短距離では、思い切った兵力を
使いますねえ。

武田信玄としては、急成長を続ける織田家
を叩くには、浅井、朝倉、長島一向一揆、
六角の残党、石山本願寺と三好3人衆が
健在の元亀3年しかない。







[2004年04月07日23時47分]
お名前: クロマティ
それにしても、つくづく思うに、信玄の死は、ちと不可思議では・・・・仮に信玄が余命幾ばくも無いとして、たとえ足利将軍義昭の要請に応えるにしても、上洛の兵を挙げるでしょうか?織田・徳川連合軍と三方が原で激突し、家康を敗走させ、三河を侵略し、信長の領国尾張まで迫る勢いも、総大将信玄の気迫が、武田軍に破竹の進軍をさせたのでは!甲府を発つとき、信玄の命が風前の灯火だったとは、とても思えません・・・・
やはり信長か家康が放った細作の手にかかったのでは・・・・そう言えば、謙信も明日上洛に向け出陣と言う日に倒れ、4日後に死を迎える・・・これもまた不可界解・・・・・
[2004年04月07日23時16分]
お名前: ヘイ
寿命を十年延長というのは、サービスしすぎではないかなあ。

死因が病死ということで、健康面で問題があるなら、せいぜい持って一年程度じゃないですか。抗生物質や抗がん剤があれば話は別になるけど、そういう時代ではなかったしね。

これが、健康面で全く問題がなく、暗殺とかあるいは不慮の事故死なら、十年延長というのもわかりますけどね。

寿命を一年延長させて、武田信玄にどこまでのことがやれるのか。後は識者におまかせ。


[2004年04月07日22時32分]
お名前: マック
うう、切られてしまったか

信長は岐阜城で、指揮下の近江衆、伊勢衆
に最大動員令を掛けるタイミングを見てい
たのかもしれない。
それは武田軍の尾張に侵攻が確実になった
ときだよね。それに馬防柵による陣地戦の
構想もすでに完成していたし、、
小牧山周辺が決戦地になったかもね。

武田も織田も決戦は避けるから、持久戦と
なるけど織田の後方で危険なのは浅井氏と
なるけど旧領回復と元家臣への復讐に駆ら
れているから、ほかっていっても大丈夫か
な。

伊勢長島の一揆軍は日帰りできる距離しか
機動しないから脅威にもならないしね。

[2004年04月07日19時51分]
お名前: マック
ふむふむ

武田信玄が病気の発作をおこさず、元気で
あると仮定すると、次は、三河の岡崎城を
攻めて、陥落するまでそこを動かない。

その間、織田、徳川の家臣達に手紙攻勢で
調略投降勧誘に励むことになる。

このとき織田信長は岐阜城にいたんですねえ。
ここで1カ月間だけ動いていない。
おた

[2004年04月07日19時43分]
お名前: マック
ふむふむ、これはひとつの仮想で
面白い・・・・・。

元亀元年の
織田信長は、
240万石、動員可能兵力は、約6万兵。
徳川家康は
48万石、動員可能兵力は、約1万2000兵。

武田信玄
130万石、動員可能兵力は、約3万3000兵。

である。もちろん各重要拠点の城に留守番は
必要で、その結果、野戦機動軍はずっと少なくて、
織田信長の場合でも、約3万兵ぐらいしか使えない。
*

信長の戦略は、武田軍を徳川領で遅延させ、、、
時間を稼ぐあいだに、北近江の浅井長政を降伏させる
ことにあった。
伊勢長島の一向一揆は前年、攻勢をかけたが失敗し
いる。
南近江の六角残党とも和睦が成功し、あまった兵力を
西近江の一揆軍殲滅に使っている。
浅井氏さえ滅ぼすか降伏させるかに成功すれば、
あとは簡単、、朝倉は戦意が無く、まず越前から
出てこない。
そうするとかなり余剰兵力が出来るわけだ。

武田信玄の西上戦力は、関東の小田原・北条氏から
借りた2000兵と駿河衆を含めて、2万5000兵
が限界であった。

信長は、機動部隊3万に徳川軍を含めて、
3万8000兵で、武田の2万5000兵と決戦する
かな??。
単純に、信長は単独で4万兵以上動員したいところで
す。北近江の平定さえ完遂すれば、6万兵でも可能
となる。

武田信玄の過去の戦歴をみると、いつも弱い敵と
ばかり戦っています。
あの上杉謙信でさえ8000兵しか引き連れて
こなかった、武田軍は2倍の兵力で戦っている。
北条氏の小田原城攻めでさえ、小田原城の見物
だけだよね。

つまりさ、武田信玄は自軍より、兵力の多い
大名と戦った経験がないのである。
勝つと確信がないと、信玄は動かない。
逆に言えば、武田軍を圧倒する兵力さえ展開
可能ならば、、武田は決戦せず撤退するしか
ない。








[2004年04月07日19時22分]
お名前: 飾り職の秀
ん〜
歴史に『もし・・』はないけど、あえて言わせてもらえば、信玄が京に上ったとして、将軍、義昭を見限る事なく、補佐し続ける事ができるかなぁ?
もし、信玄が京に上る事が出来たとして、ついでに歴史が変わり、桶狭間の大どんでん返しもなかったら、信玄対義元でしょ?・・・
想像したら楽しいけど、それは無責任な歴史学者、やっぱ『もし・・』は語っても、ねえ・・
[2004年04月07日02時00分]
お名前: ラミレス
三方が原後も、武田軍の破竹の進撃が続き、アンチ織田勢力の有形無形の後押しもあり兵站を確保、野戦に弱い織田軍を撃破して、一気に入洛。世論は、信長のこれ以上の勢力拡張を危険視していたため、信玄の上洛を歓迎。信玄は、早速足利幕府の再建に着手、室町復古の時代を目指し、足利幕府中興の祖として、執権の地位に上り詰めるでしょう。天皇も全国の大名に信玄支持の勅旨を下し、全国の騒乱は鎮静化し、一先ず平穏の世が訪れるでしょう。かねてから密かに信玄に私淑していた家康は、織徳同盟を、さっさと見限り、風林火山の旗の下馳せ参じ、信玄の最も忠実な臣下として三河一国を安堵されるでしょう。一方信長・秀吉の首は、三条川原にさらされました。
[2004年04月04日10時49分]
お名前: 快川国師
天正元年、武田信玄が没しなければ、(少なくとも武田信玄の寿命が、あと10年あったなら・・・)その後の天下取りレースは、どうなっていたんでしょう・・・・
[2004年04月03日02時37分]
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