記事タイトル:関ヶ原への遅参

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お名前: マック
上田城攻略戦では、7000から
8000兵を差し向けて、秀忠の本陣は
数キロ西に設けていたような感じ・・・・。

まあ徳川秀忠の3万8000兵を10日ほど
足止めにした事実はまちがいないけど。

織田信長の長篠の合戦では、信長の本陣は
馬防柵の前線より、かなり後方にあって、
あまりに遠すぎるもので、合戦の途中で
前進させています。

完全な平面で広さがあれば、大軍をもって
城攻めが良いのだけど、地形の制約があり
ますからね。



[2004年02月24日02時32分]
お名前: 飾り職の秀
今週の週刊ポストに秀忠遅参の話が出てましたね。

やはり、大久保・本多・榊原など徳川自慢の武者揃いも

真田昌幸の挑発に秀忠が、まんまとやられたような、

しかし、真田は2500人で3万の徳川主力を足止めしたんなら、すごいですね。

なんかで、城攻めの場合、攻め方は3倍の兵力がないと、たやすくはいかない、

と読んだことがありますが、さすが日ノ本一の兵、か・・

伏見で鳥居元忠が三成方にやられたときも圧倒的な兵力の差がありましたが、

簡単には落ちなかったのは、城攻めの天才、太閤ゆかりの名城だった、

という納得材料がありました。

上杉・毛利・宇喜多の他に真田と島津がついても、三成は・・

まあ、これなら誰でも一度は勝てると錯覚はするかな。




[2004年02月23日22時00分]
お名前: 飾り職の秀
そりゃ、どうも。

是非、今度 行かせてもらいます。

関東でも、山手線内などの駅そばで関西風なんて、汁選べるけど、たいして

おいしくはないですね。でも関西行くと、薄口なんて言われるけど、

おいしいですよね。

私も関西行くと『立ち食い』ですが、食ってますよ。

あの赤いきつねも関東と関西じゃ味 違うんですよ。

個人的には名古屋の駅(東海道線)のホームの端で、昔、きしめんを

食ったのが、うまかった思い出があります。

食ってる、そばの湯気越しに見る、駅の景色は、旅情をかきたてますな。
[2004年02月19日02時30分]
お名前: 新垂井
米原の駅から駅のうどんが関西風の薄口になるんだよね、うまいよね〜。
こだまで降りて食べてきなよ。
京都の東海道線のホームうどんもレベル高いで。
[2004年02月16日23時58分]
お名前: 飾り職の秀
出張から帰ったら、答えが出てましたか。

うる覚えで出た盛親作品、忘れてた題名がわかって、ひっかりが取れました。

燃えよ剣を今読んでますが、やっぱたまに読むと楽しいですね。

初めて読んだのが15年ほど前、今読むとまた違いますね。

戦雲の夢、来週にでも古本屋で探してまた読みますよ。


ところで、東海道新幹線で米原を過ぎると、佐和山城跡と山の中に

看板っぽく書いてありますね。新幹線なので、あっという間ですが。

後年出来た彦根城に比べ、山間にあるような気がしますが、

もうちょっと湖畔に立てればよかったのに、

と数年前、彦根城に行った時、思いました。

結局、福島正則も加藤清正も、徳川に滅ぼされましたが、

その勇猛な人物像は歴史に残りました。

だが、いっぽうは名人、いっぽうは無断修築なんて難くせつけられ召し上げ。

藩主と城にまつわるエピソードも、その場に立つと余計、スケールが大きく感じます。

島の左近と佐和山の城・・三成と井伊が治めた近江も、いいとこたくさんありますね。
[2004年02月16日23時24分]
お名前: マック
なるほど、、戦雲の夢てしたか。
甘興覇さん、ありがとうございます。

嫡男の信親が九州で戦死してから、
ちょうそかべ元親は狂ってしまいましたね。

嫡男の死亡により、次男、特に三男を幽閉し
四男の盛親に、嫡男のむすめを結婚させ
家督を継がせたこと。
このとき、これに反対した家臣たちを殺して
しまったことに問題がありました。

家臣団の結束がないと関が原前後の政治的混乱
を乗り切れませんね。

秋田氏の秋田実季が嘆くように、親父の時代は
戦いによって、一郡一郡を切り取ったり、奪わ
れたり激しい攻防があった。
ところが豊臣、徳川といった御公儀なるものの
時代になると、、当主の政治的判断の良し悪し
だけで一家一門が一瞬にして全滅の憂き目にあう。
なんという恐ろしい時代なのかと。
*

日本人の気質は江戸時代に育てられたと。
一般にいう「勝ち馬にのれ」とはまさに
このことなのだよね。
織田から羽柴へ、、豊臣から徳川へ
うまく泳いだものが栄達する。

司馬遼太郎は、坂本竜馬の資料集めのふろく
で、ちょうそかべやら、山内一豊を書いたの
かな。


[2004年02月15日06時08分]
お名前: 甘 興覇
 えっとドモドモでございます。甘 興覇というものでございます。

 ほんでもって、司馬遼太郎さんの長宗我部家を題材にした小説の
話題が出ておりますが、マックさんがいわれる通り”長宗我部元親”
を題材にしたのが「夏草の賦」。ほんでもって”長宗我部盛親”を
題材にしたのが「戦雲の夢」という作品です。飾り職の秀さんが
読まれたのはこの作品ではないかと思います。

 作品の発表の年代までは覚えていませんが、たしか「夏草の賦」
の方が先に発表されていて、おそらくその着想から「戦雲の夢」が
書かれたのではと思います。

 そうですね”長宗我部家”という家も調べるといろいろと面白い
家だと思います。惜しむらくは『戸次川の合戦』で”元親”の嫡男
”信親”が死んでいなかったら、関ヶ原後の”長宗我部家”の運命
ももう少し変わったものになっていたかも知れませんね。
 っということで‥‥

                   以上、甘 興覇でした。


 
[2004年02月15日01時13分]
お名前: 飾り職の秀
あれっ?
じゃあ盛親のは、なんだったかな?池波正太郎だったかな?
確か、兄弟のように、過ごした家臣が、大阪の陣で徳川につく話、一巻物で、
まあ、うる覚えなので、自信ありませんが。

山内の話、司馬遼太郎の『関ヶ原』で知ったときは、笑えましたね。
[2004年02月12日23時44分]
お名前: マック
ちょうそかべ元親ですよ。
まあ あまりこだわらないけどね。

山内一豊の物語は、「巧妙が辻」司馬遼太郎著
が面白かった。

話は変わるけどさ、山内一豊が決定的に出世し
たのは、家康に、掛川城地を献上するといった
ことによります。
その意味はね。
ます尾張の福島正則から始まって東海道を江戸
まで、秀吉は信頼の出来る諸将を配置した。
それはね、10万人の大軍をただちに大坂から
江戸まで移動できるよう、大量の米穀を拠点
拠点に蓄積してあったのだ。特に尾張に。

家康は石高250万石といえども田んぼ
ばかりで、商業的に後進地帯で経済力では
秀吉にかなわない。

山内一豊は、静岡の掛川城とそれに付属す
るものすべて、家康に提供すると申し出た
ことにより、東海道に配置された豊臣恩顧
の大名もそれにならった。
つまり将来の仮想的江戸攻略の準備はなさ
れていた秀吉とその側近の戦略を逆手に
とったわけだ。
山内一豊の功績は、不足するだろう軍資金
、食料の問題を解決したことによるもの
なのだ。

ちなみに家康が秀吉より先に病死等した
場合、、、まちがいなく徳川家は解体
された。その方法は簡単、家康の子供たち
をみんな分割相続により独立大名にする。
徳川の有力家臣を引き抜き、独立大名にする
などが常套手段ね。


[2004年02月12日02時48分]
お名前: 飾り職の秀
そうそう、夏草のなんとか・・読みました。

でもあれ、元親じゃなく、盛親が主役でしたよ、確か。

面白かったのですが、関ヶ原でなぜ西軍に着いたかが、あまり明確じゃ

なかった気がします。『運悪く・・』や『盛親には東軍が勝つのは

わかっていた・・』みたいな感じで書いてあったような気がします。

違ったかな・・

なので、詳しく知りたいと思ったのです。

しかし、この関ヶ原で四国を手に入れた家康、あらためてすごい親仁ですね。

事のきっかけ上杉、三成の話に乗ってきた毛利、宇喜多を一気に弱体化させ、

前田を懐に入れ、三成・増田ら奉行職をことごとく、排除したのですから

豊臣政権での一人勝ちっぷりは、見事の一言につきます。

ところで土佐を手に入れた、山内氏、特に一豊公の、小山評定でのエピソードは

面白かったですが、結局幕末まで藩主でいましたね。

しかも、大政奉還まで、勧めてるし。

徳川家にとって、いろんな局面でキーパーソンな一族ですな。



[2004年02月12日01時29分]
お名前: マック
長宗我部盛親について
詳細は書けませんが、だいたいのお話です。

徳川家康は関が原戦のあと、長宗我部には
土佐半分を削るだけで、土佐半国の大名として
残すつもりでした。

しかし盛親は土佐に帰ると幽閉中の兄、親忠を
殺してしまいます。

これを聞いた家康は激怒したと言われています。
家康は暗殺とか謀殺を嫌って、生涯一度もそのよ
うなことをしなかったのです。
それは家康の父親も祖父も、自分の家臣により
暗殺というか殺害されていますからね。
祖父、父親を殺した殺害者はその場で、討ち取ら
れていますが、その親族、係累はお構いなしとい
う不思議な事件です。

とにかく盛親はすべての領土を取り上げられまし
たけど、、命だけはとられることなく
京都か大阪で寺子屋の師匠として生活すること
14年、、そして大坂冬の陣で大坂城に入城します。

しかし長宗我部盛親の軍勢は、なぜか覇気がなく
あまり活躍することもなく、大坂城落城のあと
盛親は刑死となりました。

司馬遼太郎の長宗我部ものといえば、夏草の腑
だっけ?? がゆうめいですけど、
親父の元親の一代記。

[2004年02月11日20時36分]
お名前: 飾り職の秀
真田の分裂は、大名同士の安全対策、姻戚関係の構築が裏目に出た、

かわいそうな出来事でしたね。子が親を殺す戦国時代、

家臣が親方を殺す下克上時代に、真田昌幸は真田を守るため、

あえて自分の子と戦う決心をしたことは、思い入れが入りますね。

そのお蔭か幸村はいつも、二枚目か大物がやりますもんね。

話が飛びついでに、長曽我部盛親についてどなたか教えてください。

大阪夏の陣、唯一、元大名で参加した盛親。

司馬遼太郎で一冊読んだことがありますが、大変興味があります、

なに読んだらいいか?教えてください。
[2004年02月09日20時21分]
お名前: 新垂井
 真田昌幸の子で、幸村の兄、信幸の奥さんは、誰が呼んだか(銭形平次)徳川四天王の一人、本多忠勝の娘だったとか、関係ありそうでんな、無いかな・・?
小山で真田の分裂を知った家康は、そりゃ秀忠に上田経由を命令するでしょ。
[2004年02月09日03時41分]
お名前: マック
とりあえず
信州、上田城攻めは、徳川秀忠にとって
初陣だった。そして前もって、その攻略に
対してなみなみならぬ決意を諸将に手紙で
書いている。

しかし上田城の真田昌幸の最大兵力は、、
2000兵ぐらい。
家康は、この上田城に関して、まったく
考慮していなかった。
真田の上田城なんて、戦略的に無価値。
攻めても良いし無視しても良い。
そのために軍師格の本多正信を秀忠に
つけたのだ。

[2004年02月09日00時30分]
お名前: 広嗣
 一連の書き込みを読みながら思ったのは、秀忠が遅れたと伝える原典は何なのかです。元の史料があるはずですが、そこではどう書いているのでしょうか。それが分からないと、遅れたか間に合ったのかは、判断できない気がします。

 「遅参問題」から少し離れて、秀忠は何故東山道を通り態々上田城に行ったのでしょう。単に家康の下に馳せ参じるのなら、こんな遠回りをせずに家康の後を追えば良い筈です。秀忠は真田昌幸を牽制する任務を帯びていたのではないでしょうか。

 400年も経った今、家康の考えは、推測するしかありません。伊賀忍者の情報活動や自身の心理戦で双方の兵力の見込みは、大垣に着く時点で家康にはできていたはずです。それよりも家康は背後に真田軍が現れることを恐れていたと思います。真田の旗の与える心理的な影響もさることながら、背後に現れるということは、前後を挟み撃ちにされるということです。

 親の欲目で過大評価をしたり過大な期待をかけていない限り、家康は秀忠に真田を倒せるとは思っていなかったでしょう。あとは上田城で「もたついた」ことが、家康の計画通りだったか、です。


[2004年02月08日02時05分]
お名前: 飾り職の秀
ん〜またまたごもっともな、ご意見・・確かに、秀忠軍3万の関ヶ原への木曽路の旅は

遅刻寸前の朝のダッシュに近いものですよね。

ただやっぱ家康は、『勝ち』だけは確信してたのは、確かだと思いますよ。小早川や吉

川広家への内通もありますが、関ヶ原のあの西軍の陣形(鶴翼の陣)を見て、後年どっ

か外国の軍人が、西軍の勝ちだと言って、東軍と勝ちと、その訳を知り、裏切りがあっ

たなら仕方ないと、言ったと司馬遼太郎が言ってましたが。あの野戦上手の家康は絶

対裏切ると見越さないと、あの陣形では、戦わないと思います。また、戦場で戦うに

は、これまた東軍には戦上手が多すぎました。島津は少なすぎ、宇喜多は多すぎ、朝

鮮でならした小西勢もなぜか振るわず、最初から小早川の裏切りに唯一備えていたよ

うな、大谷吉継も案の定、金吾にやられ、三成がもし松尾山に小早川の布陣を頼んだ

なら、三成は金吾を信じきってたと考えない限り、かなり軍人としては・・・?です。

こんな状態の相手では、戦う前から、結果はわかってたと言われても仕方ないと思い

ます。だから秀忠の遅参は兵力温存にはもってこいだと、思うのですが。




[2004年02月08日01時07分]
お名前: マック
「徳川実記」が徳川幕府ご用達の作家??によって
書かれたように、2代目秀忠の治世においては
秀忠軍の遅参は予定の行動であったと主君を美化
した主張があったかもしれません。

現実に、家康は秀忠軍3万が無くても勝てると
確証していたし、、関が原の合戦場では両軍10
万の兵力が展開するには狭すぎます。

しかし問題は、秀忠軍の遅参の理由にあります。
その理由が極めて不名誉であるし、、、
実際に戦場で実戦投入されるかどうかは別として
予備兵力として南宮山の北に、秀忠軍は待機して
いなければなりません。

そうすれば豊臣秀吉の常勝戦術、大軍で圧倒し
敵の戦意を喪失させる戦法がとれたわけです。

仮に、敗戦後の用意という消極的な理由で
秀忠軍の遅参を正当化するならば、
どうして信濃と東美濃の山間部で軍勢の編成
もばらばらで、西へ、西へ急いでいるのでし
ょうか。
少なくても美濃の岐阜城あたりに、戦闘可能な
編成で待機するべきであって、、この遅参が
予定の行動であるはずがない。

それに関東の宇都宮には、次男の秀康が駐屯し
上杉軍が南下するのはまったく不可能な状態で
あり。関東の守りは、将帥としては怪物的な
梅毒で鼻が落ちかけている秀康が存在し、、、
この次男の存在が大きいのです。

家康でさえ恐れた次男秀康に関東の守りを
まかせておけば、磐石で何の心配もないのです。

以上、しかし これについてはもうちょっと
調べてみます。



[2004年02月07日04時24分]
お名前: 飾り職の秀
う〜ん、悩みますねえ。さっそくの情報ありがとうございます。

どっちも、ごもっともな、ご意見というか見解ですね。

互角の戦いに『した』とも聞いたことがありますが、もう分け与える領地が無くなり

朝鮮支配に出兵した秀吉に対し、家康は改易という形で、直臣たちの領地を増やすた

め、『三成の挙兵』と『関ヶ原』を、演出したと聞かされた事もありました。

確かに秀忠軍の方が、家康本隊より戦上手揃いの徳川の主力の気がします。

真田昌幸にまんまと足止めを食らうかな・・と思いますが。

また逆に、小早川秀秋と吉川広家だのみのおおいくさを家康が考えるとも思えません

ね。秀秋に勝たせてもらった、なんて後々のためにも言われたくないですよね。やっぱ

り秀忠遅参は大誤算だったのでしょうか?






[2004年02月07日02時50分]
お名前: ルイ17世
 え〜最近読んだ本では・・

 実は「秀忠軍3万余の軍勢」は予備軍で、関ヶ原に遅れた事は
最初から予定された事であった・・・とありました。

 確かに、関ヶ原は小早川秀秋軍の裏切りと毛利軍の日和見
(重臣:吉川広家への工作からですけど)が無かったら家康軍
の大敗北では無いかと云われてますので・・・・タヌキ親爺こと
「家康」ですから、万が一を考えて「保険」をかけたのではない
かと思いますです。

 つまり「秀忠軍3万」は保険で、もし家康の小早川秀秋&毛利軍
への工作が失敗して関ヶ原で敗北した場合、この秀忠軍を糾合して
関東(江戸)に立て籠もるのではないかと思うのですけどね。
[2004年02月07日00時37分]
お名前: マック

飾り職の秀さんへ、、、
なかなか面白く、興味深いテーマですね。

しかし秀忠軍3万余の軍勢が、関が原に遅れたことは、家康の大誤算ですよ。
なぜならば、秀忠が遅参したことにより、、関が原の合戦マップが変わってしまっ
た。それは
      西軍8万5000兵
      東軍8万    兵

と数の上で、西軍が上回ってしまったというか、ほぼ互角の展開となってしまっ
たことです。
戦国合戦の勝敗の決め手は、統計的に戦場での兵力の多いほうが、たいてい勝つ
というあたりまえのことなのです。

もちろん厳島の戦い、川越夜戦、桶狭間戦という例外はありましたけど、、、
これはそれぞれ毛利氏、後北条氏、織田氏の勃興の基礎となり、弱小大名が、
巨大化するためには避けて通れない、難関ということですよ。

もうすこし 関が原の実戦部隊について述べます。
両軍の遊兵は除いたものです。

    東軍   豊臣恩顧系(反三成)軍・・・・・約3万兵
         家康本隊軍  ・・・・・・・・・約3万兵

    西軍   西軍主戦軍  ・・・・・・・・・約3万5000兵

これに松尾山の小早川秀秋軍1万50000余兵が、東軍につくか、西軍につく
か迷い、、、戦勝のキーマンとなってしまった。

家康は桃配山で、、徳川本隊の3万兵を投入するタイミングを狙っていました。
シュミレーションすると、、家康は旗本勢3万を投入すると、西軍主力を
粉砕できるかもしれないが、地形的にきわめてリスクが高い。
石田三成本隊は持ちこたえる可能性がある。実際にかなり善戦し大健闘をして
います。

そして南宮山の毛利軍の存在と動向が気になるし、まして松尾山の小早川がど
ちらに参陣するか決定しないことには、家康本隊は動けない。
実際、小早川が、西軍の弱い右翼側面に突撃を開始したことにより、
家康は本隊3万の予備兵力をすべて戦場に投入し、勝利を決定的なものにした
のでした。

仮に、小早川1万5000兵が西軍側につき、東軍の豊臣恩顧系軍に突撃した
ならば、どうなったか。この瞬間、東軍の勝利は無くなったと思います。
まったくの互角で時間切れ、日没となると、家康は本隊3万に守られながら
関が原を離脱するしかない。
これは南宮山の毛利秀元約2万兵が、家康危機の情報で、西軍側にまちがいな
く与力する行動を取ると考えられるからです。
いったん、先端を切った毛利は、吉川広家軍を先頭に、全運命を賭けて、、、
家康戦死にむけて関が原の決戦場に走るでしょう。

合戦は総大将の戦死なんて稀なことで、最初に戦場を離脱したほうが負け、
逆にいえば戦場に残った軍勢が勝ちという不文律があります。
しかし予備兵力つまり遊兵の多い石田三成は戦場に残れても、実働部隊の多い
家康は関が原に残れないということです。

関が原の勝利は、家康にとって薄氷の勝利で、
織田信長や豊臣秀吉ならば、信濃の秀忠軍が到着して、本隊6万とならない
ことには、この合戦はさけたでしょうね。



[2004年02月06日19時13分]
お名前: 飾り職の秀
関ヶ原に遅参した徳川の主力、3万の秀忠軍。

信州の真田昌幸にいい様に、蹴散らされ、関ヶ原の戦いに遅れた事になってますが、

本当に、それが理由で遅れたのでしょうか?

確かに家康のほぼ思惑通りに、戦が起こった、関ヶ原の戦い、

家康に負けは見えてなかったと思いますが、

もしものために、家康が、秀忠と共に本多正信や大久保忠隣、榊原康政らを関ヶ原によ

こさなかった、とも思えるのですが、どうでしょうか?



[2004年02月06日05時30分]
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