記事タイトル:足利義満のひみつ?

書き込み欄へ 記事一覧に戻る
お名前: 平皇胤
であるから彼の死後政治がおかしくなるのです。そうでしょう面白くないわけですよ。日本の南北朝の戦い応仁の乱の一因だいたい足利なんて認めるもんかというのといいやそれではいけんというのは戦国時代もあって蜂須賀小六なんていうのも南朝支持者ですよ。戦国時代は実にこの馬鹿たれのおかげで鉄砲があって始めて天下統一が猿のひでよしによってなされたのですよ。秀頼、是が又石田光成のと淀君の子供だからまたせんそうですよ。やっぱり不倫はいけませんな。日本の中世がおかしいのはまとまらないというのは子孫なら俺だって王様になってやる。というぐあいですよ。皇室に弓引くわけでありませんが。外国の日本史研究者も知っているはずです。英語でですね 
[2004年12月19日01時06分]
お名前: 平皇胤
足利義満の墓には太上天皇としるされています。天皇もみとめたということですね。
なお北朝は足利義満の子孫です。
[2004年12月19日00時40分]
お名前: 平皇胤
かれは鹿苑天皇とよばれておりまして死んだあとも太上天皇のなまえが皇室から贈られています。天皇だったと皇室が認めたとしか考えれません。皇国史観にとってそうじゃないといっておりますがそのようです。天皇であり日本国王であり、征夷大将軍であり
国際的な苗字は源名は道義国内名は足利義満、北朝の天皇家は、足利義満の子孫です
だから南北朝の争いがずうーとつずいてるわけです。北朝はこうめいてんのうでおわりです。殺されました。明治天皇は南朝の血を引きます。だから楠正成の銅像がこうきょにあるわけです。足利が大日本帝国に嫌われたのはそれゆえです。明治革命ですからそれもやむなしでしょうがもうばれていますからぶっちゃけてもいいとおもいます。うちは平氏の血を引いてるので西朝貴族の末です。
[2004年12月19日00時36分]
お名前: ちきチキン
授業で調べはめになってしまいました・・
すっげー暇です
情報提供望みます
ぷぅやんさん 連続書き込みうざいしマナー違反だよ
やめといたほうがいいよ
[2004年12月13日09時47分]
お名前: TOSHI
「万人周知の事ぢゃ」と言われるかも知れませんが、実は足利義満は少なくはない妻妾の他に、世阿弥らの男寵をも愛でていますよね。
もちろん此の時代は男女両色を嗜むのは至極当たり前の行為だった訳ですけれど(と云うよりか、近代化されてキリスト教道徳に洗脳される迄の世界はどこの社会に於いても、男色は極く普遍的な性的営みだったのですが・・・)。
[2004年11月22日07時38分]
お名前: ヘイ
足利尊氏が定めた建武式目は、法令のように見えるけど、これは為政者の心得みたいなもの。これによると、幕府を開くのは鎌倉が望ましいけど、それにはこだわらないとあります。
ところが、足利尊氏が実際に幕府を開いたのは京都室町ではなかったんです。
第三代将軍足利義満から京都室町に庁舎を置いたようですな。

ここらへんの理由はよくわかりません。

想像するなら、京都という特殊性になりますか。
まず、京都御所に近い。この当時の朝廷はビンボーで落ちぶれてましたけど、それなりに利用価値はあったと思います。ただし、肩入れしすぎない程度に距離は置いていたでしょうね。
あとは、経済面ですか。当時の日本では京都が人口一番多かったと思うので、税金の取立てとか、行政サービス面での手数料とか。出先機関or出張所と本庁とでは効果も違うでしょう。

NHKの集金人が1000人いるのと、10人とでは違うと思うんですよね。

治安の問題も重要でして、治安がよければ、経済活動もよくなるでしょう。消費税があったかどうか知りませんが、通行料ぐらいはあったと思います。
人間や物資の移動で、幕府の税収はあがるんじゃないですか。

ま、ここらへんはあくまでも想像の範囲内ですが。


酒屋とか土倉とかの金融機関も室町の頃に発達したんだけど、こんなとこからも金巻き上げたって話もありますね。室町幕府は、金にはかなり悪どかったって話ですよ。

[2003年07月30日22時12分]
お名前: ぷぅやん
わかりまいた!ありがたいぃ!!
わかりやすくておもしろかった(笑)

ありがとうございました!
あとついでに、どうして京都に幕府を開いたかおしえてください!


[2003年07月30日11時37分]
お名前: ヘイ
足利義満は天皇になろうとしたのではなくて、朝廷から太上天皇(だいじょうてんのう)という称号を贈られるところを、固辞したみたいですね。
ここらへんのいきさつは、足利義満の夫人が後小松天皇の親がわりというせいもあるかもしれませんが、資金力のある足利義満を天皇家が取り込もうとしたんじゃないですかね。
足利義満は南北朝統一とか、土岐氏・山名氏・大内氏などの有力守護大名を打ち滅ぼしてますから、それなりに政治力もあったものと思われます。さらには、倭寇鎮圧と引きかえに行った明との勘合貿易で経済力もあったでしょうね。

ところが、天皇あるいは公家というのは、この当時は資金難というかビンボーでして、政治的にも求心力は失っていたと思います。今の天皇と一緒にしちゃ駄目よ。

応安元年(1368) 11歳で室町幕府第三代将軍となる。
応永元年(1394) 将軍職を子息義持に譲る(33歳)。朝廷から太政大臣に任命される。
応永2年(1395) 太政大臣を辞す。

こういうのを見ると、政治に興味が無いのかなと思われるけど、そうではないんですね。
当時の日本を取り仕切っていたのは、実質的にこの人でしたから。

明との国交樹立においては、書状にみずからを「日本国王臣源」と署名し、明皇帝からも「日本国王」としての扱いを受けた。

つまり、天皇だの将軍だのって肩書きにはこだわってなかったということですね。
肩書きにこだわったのは、「日本国王」ということだけみたいです。それ以外はどーでもいいのよ。政治をやるのに、そんなもの必要無いってことなんでしょうけど、すげー割り切りよう。

特に秘密なんてのは無いと思うよ。

[2003年07月29日23時03分]
お名前: ぷぅやん
だれか・・・
できれば早めにおねがいします。
いや、夏休み中ならいいんだけど。
レポートがおわらないとヤなんで・・

[2003年07月27日22時57分]
お名前: ぷぅやん
天皇になろうとしていたこととかに・・・

[2003年07月27日22時53分]
お名前: ぷぅやん
誰か!!
おねがいぃぃ〜!!!

[2003年07月26日00時02分]
お名前: ぷぅやん
えっと、学校の調べ物で足利義満についてしりたいんですけど・・・
義満サン、実は***だった!!とか。なんでもいいんです(>0<)
よろしくおねがいします。

[2003年07月24日22時58分]
このテーマについての発言をどうぞ。(管理の都合上書き込み時のIP情報を内部保存しております)

氏名
E-mailURL


半角カナは使用しないようにしてください。文字化けします。